スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

歴史から学んでほしい人々への感謝と郷土愛 天王寺蕪の会 事務局長 難波りんごさん

母親向けのミニコミ紙づくりからスタートした難波りんごさんの活動テーマは、阿倍野の郷土史から「なにわ伝統野菜」の食文化にわたるまで、さまざまな広がりを見せている。子どもや地域の人々のために奔走する難波さんだが、その企画力や探究心、行動力には頭が下がる。学校や地域をつなぐ活動の一端を伺った。

 

天王寺蕪の会 事務局長 難波りんごさん
なんば りんご  1955年大阪市出身。神戸女学院大学文学部英文学科卒業。1989年にタウン紙『おかあさんチョット…』阿倍野区版編集長を担当したのを機に、郷土史の調査・研究を始め、阿倍野区の沿革や埋もれた史跡を発掘して地域情報紙などに発表。学校・地域の要請で講演活動を展開。2000年『もうちょっと知っとく? 私たちの阿倍野』(新風書房)を出版。学校で地域学習に使用されるほか、住民にも愛読されている。1995年大阪の伝統野菜である天王寺蕪が野沢菜の先祖であることを発表。マスコミで報道されて以来「なにわ伝統野菜」が一躍有名に。現在は「天王寺蕪の会」事務局長として、野沢温泉村との友好交流を継続中。著書に『あべの昔話 鬼はどこへ消えた?!』(新風書房)、共著に『ごめんやす「おおさか弁」』(リバティ書房)、『大阪力事典』(創元社)など。

ミニコミ紙を通じてできた仲間

藤本 難波りんごさんって、素敵な名前ですね。芸名ですか。

難波 本名なんです。といっても改名ですが。実は、結婚して夫の母と同姓同名になったので、ややこしいから変えたんです。難波りんさんとの対談写真 その1

藤本 りんごが大好きとか?

難波 親しみが持てていいかなと。でも50歳を過ぎ、みずみずしさがなくなってきたので、「干りんご」にしたほうがいいかもしれませんね(笑)。

藤本 難波さんとは同じ歳なのでお互い様(笑)。それに、これまでの活動を拝見すると、似ているところがありますね。子育て真っ最中の時期に、お母さんたち向けのミニコミ紙をつくられていたそうですね。

難波 『おかあさんチョット…』という生活情報紙です。

藤本 つくられたきっかけは?

難波 末の娘が入園し、少しだけ時間にゆとりができたとき、地域のミニコミ紙をつくる仕事があったので、応募したのです。もともと社内報を担当していたので、その経験も生かせるなと思いまして。

藤本 阿倍野区版の編集長だったそうで、大変だったでしょう。

難波 子どもを自転車に乗せて取材に出かけたこともあり、大変でしたが、それ以上に得るものがありましたね。

藤本 どれくらい続けられたのですか。

難波 5年ほどですが、この新聞づくりを通して、阿倍野のまちの素晴らしさや、人のあたたかさを知りました。

藤本 みんな意外に自分のまちのことは知らない。でも、取材を通じて人の話を聞き、メモをとることで、見えてくるんですよね。

難波 昔から探究心は旺盛だったので、いろいろな人から感動させられたり教えられたりで、本当に学ばせていただきました。

藤本 一緒につくる母親仲間のつながりもできたでしょう?

難波 子育ての悩みを語り合ったり喜び合ったり、随分助けられました。とても恵まれた子育て環境だったと思います。

藤本 私も同様の活動をしてきたので、よくわかります。多くの母親たちが、子育て中は何もできないとあきらめています。このような活動から自分が社会の中で生かされている喜びを感じ、勇気や自信を持てるようになったりするんですよね。それを辞めてしまったのはなぜですか。

難波 小学校の広報委員長を頼まれ、両立させる自信がなく、突然でしたが、50号というキリがいいところで辞めました。それでも地域の人たちや母親同士のつながりは残り、いまだにおつきあいしています。

藤本 ミニコミ紙づくりが、今の難波さんの土台になっているのでしょうね。

難波 ミニコミ紙で阿倍野の歴史を伝える連載をしていたのですが、それがきっかけで阿倍野の歴史や史跡に興味を持ち始めました。そして、ちょうど30年以上住んだ阿倍野から大阪狭山市へ引越しが決まったときに、いい機会だから、阿倍野の歴史を一冊にまとめようと思い立ったのです。

藤本 素晴らしいことですね。長年暮らした阿倍野というまちへの愛のカタチ?

難波 それまでたくさんの先生方にいただいた貴重な資料を、無駄にしてしまっては申し訳ないと思って…。

藤本 大変な引越しの片付けですね。

難波 7月末に引越しが決まっていて、思いついたのが5月の連休ですから、完成までに3か月弱。ものすごく大変でした。

梅田・難波をクジラが泳いでいた!?

藤本 阿倍野はどんなまちですか。難波りんさんとの対談写真 その2

難波 とても一言ではいえませんが、古来から景観のいい所に理想的な住宅地として発展してきた阿倍野には歴史があり、史跡も数多く点在しています。一方、ターミナルに隣接する阿倍野再開発地域では、これから大きく様変わりする計画が明らかにされ、新しいまちの図も見えてきています。

藤本 歴史あるまちと、これからのまちがどうコラボレートしていくか、とても楽しみですね。

難波 商業施設などのビッグプロジェクトだけでなく、誰でも企画・参加できる催し物やまちづくりなどにおいても、まちの歴史に誇りを持ちながら新しい魅力を取り入れていける、そんな柔軟性を備えている阿倍野であり続けてほしいです。

藤本 ところで難波さんの書かれた『もうちょっと知っとく? 私たちの阿倍野』は歴史といっても難しいイメージではなく、興味がわく言葉がたくさんありましたね。びっくりしたのは「クジラが梅田・難波辺りを泳いでいた!」という言葉です。

難波 私も知って驚いたのですが、大阪ではビルの建築や地下鉄工事のときに、地下深くから海の生物の化石がたくさん出ているんです。縄文時代、大阪ではクジラが泳いでいたようで、梅田や難波辺りでも巨大なクジラの骨が見つかっています。

藤本 興味をそそられますね。

難波 阿倍野区は、上町台地の上にあるんです。上町台地は、大阪市の中央部(大阪城辺り)から南の方に細く伸びている標高15〜25mの台地ですが、6000年ぐらい前は南北に伸びた半島で、東側は生駒の方にまで海が入り込んでいたんです。

藤本 そんな話を聞いたら、住民の皆さんはびっくりするでしょうね。

難波 大阪平野の移り変わりを知ると、いろいろなことが見えてきますよ。たとえば古墳がなぜそこにあるのかとか、大阪城があの場所にあるのは、北側と東側には川が流れ、上町台地の先の高台に位置し、守りやすく攻められにくい絶好の場所だったからとか。それがわかると納得できるでしょ。

藤本 地形と歴史は関係があるんですね。でも、梅田や難波にクジラが泳いでいたと聞いただけで、なんだかワクワクしますね。

難波 そうでしょ。私は歴史が苦手だったのですが、調べれば調べるほど面白くなってきて。縄文時代の人たちはこの上町台地から、潮を吹き悠々と泳ぐクジラを、どのような思いで眺めていたのだろうと想像すると、瓦尾根が海に見えてきたりして…。ここまでくると病気です(笑)。

藤本 そこまでやるから面白いんですね。

難波 とくに影響を受けたのが、四天王寺国際仏教大学(当時)の安井司先生です。いつもどこでどう調べられたのかと驚くほど多岐にわたる資料を準備してくださり、ご教示いただいています。先生のおかげで、阿倍野のことから「大阪学」へと興味が広がり、また疑問を持ったら自分で調べて推考、整理して納得する。その大切さと楽しさを教わりました。

藤本 面白がることが一番の学問だと思います。気になったらとことん追究するという、その性格がいいですね。

野沢菜の親が天王寺蕪だなんて!

難波 今、関わっている「天王寺蕪の会」も軽いノリで始まったんです。地方によく出張される方から「お土産を持っていくのに何がいい?」と聞かれて「豚マン」と答えたのですが、ふと思ったんです。「阿倍野の特産物って何やろ?」って。難波りんさんとの対談写真 その3

藤本 いよいよ、難波りんごの出番ですね。

難波 そこで一緒に調べたら、大正14年発行の『天王寺村誌』の特産物のところに、天王寺蕪のことが書かれていたんです。「遂に廃絶に帰し、可惜、名のみを存するに至れるなり」と記されていましたが、種子も見つかり、タウン誌などで情報を募ったところ、信州出身の料理研究家の方から「天王寺蕪が野沢菜のルーツですよ」と教えられて、もうびっくり! しかも「天王寺蕪が野沢菜の親であることは、村中の人が知っていますよ」と聞いてさらにびっくり。

藤本 野沢温泉村ではそれほど有名な話なのに、大阪の人は誰も知らなかったというのも面白いですね。

難波 不思議な話でしょ。今年、野沢温泉村では野沢菜とモーツァルト、生誕250年をかけてPRを行っています。野沢菜蕪四季会社「蕪主総会」の11月1日には、親である天王寺蕪を連れて、私たちもイベントに参加する予定です。

藤本 地域交流を兼ねた素敵なPR活動ですね。それにしても、天王寺蕪の活動の原点が野沢菜だったなんて!

難波 野沢菜が有名なだけにマスコミでも取り上げられ、天王寺蕪への関心が一気に高まりました。難波利三先生には、もう10年くらい前に「天王寺蕪の会」の会長を引き受けていただいたのですが、講演会などでも随分PRしてくださいました。そして勢いづいて、田辺大根、毛馬胡瓜、勝間南瓜、玉造黒門越瓜なども続々復活。それぞれの地域で普及活動に取り組んでいる皆さんとつながりができました。

藤本 『ビーボラビータ』でも、昨年「なにわ伝統野菜」を1年間連載しましたが、さまざまな取り組みがあるようですね。

難波 「なにわ伝統野菜」は漬物だけでなく、飴や焼酎、お菓子など、さまざまな加工品になっています。清水谷高校の子どもたちは、玉造黒門越瓜でクッキーをつくりましたし、苗代小学校では「天王寺蕪と野沢菜の話」をテーマにした劇を演じてくれました。

出会いを大切にして今がある

藤本 皆さん「なにわ伝統野菜」への思いからなのでしょうが、アイデアがユニークですね。難波りんさんとの対談写真 その4

難波 本当に感心しますよ。今、多くの小学校で「なにわ伝統野菜」の栽培に取り組んでいます。その経験から、自然や人に感謝する気持ち、食べ物を大切にする心、みんなでつくる意味などを学んでいると思います。野菜嫌いの子どもが自分で育てた野菜を食べたり、上級生が下級生の世話をしたりと、野菜と一緒に思いやりや感謝の心も育っているようです。

藤本 スーパーに並んだ野菜しか知らない子どもも多い時代。たくさんの人の思いがあって、この野菜が食卓に並んでいるという事実を知ることは、どれほど大切なことでしょう。

難波 また面白いことに、明治7年に創立された天王寺小学校の校章には、蕪がデザインされています。明治の初めには、まだ天王寺蕪畑が広がっていたのでしょうね。

藤本 難波さんのように「何だろう?」という疑問を持つことがすべてのスタートで、その思いが人から人へ。これこそが、伝統文化の継承といえるのでしょうね。

難波 みんなが自分の地域に少しでも関心や愛着を持てたら素晴らしいと思うんです。周りにあるものに興味を持って調べてみると、多くの人々の恩恵を受けて今があることに気づきます。

藤本 そこからありがたみや感謝の気持ちが生まれてくるのですね。

難波 物には始まりがあり、生い立ちや歴史を知ると愛おしさが増し、大切にしたいと思うようになります。まちも物も人も…。

藤本 本当にその通りです。ところで、今後の活動を教えていただけますか。

難波 一昨年に阿倍野を舞台にした昔話絵本『鬼はどこへ消えた?!』をつくりました。これから少し力を入れて、この絵本を通して、子どもたちに大切な「心」を伝えられたらと思っています。

藤本 どんな絵本なのですか。

難波 阿倍野区にある聖天さんで知られる正圓寺のご住職の辻見覚彦さんと阿部野神社の宮司さんが「鬼は外…と、節分の日に追い出された鬼はどこへ行くのでしょう」と話されたそうです。そして、辻見さんから、「鬼が改心するお話ができないかな」と言われました。今まで考えたこともなかったその発想に魅せられ、物語をつくってみたんです。

藤本 またまた、りんごさんの病気ですね。どんなストーリーですか。

難波 田畑を荒らしたり物を盗んだりと悪事を繰り返す鬼たちを見かねた鎮守の森の神様と聖天さんの仏様が、鬼をこらしめる方法を村人に伝授し、鬼たちを改心させるという話です。当時苗代小学校に勤務されていた志村敏子先生が、6年生にこの作品を読み聞かせたところ、わがまちを舞台にした物語に子どもたちは大喜び。卒業前に劇を演じ、絵を描いてくれました。

藤本 改めて出版された絵本が、阿倍野の地域や学校で昔話として語り継がれたらいいですね。難波さんの「なぜ?」がお芝居になり、絵本になり、いろいろな人たちの思いで広がっていくなんて素敵ですね。最後に、これまでのいろいろな活動を振り返っていかがですか。難波りんさんとの対談写真 その5

難波 今日まで「出会い」を大切にし、いろいろな方からたくさんのことを教わってきました。大阪の歴史にしても、「なにわ伝統野菜」にしても、それぞれの地域でそれぞれの人が研究や普及啓発活動など熱心な取り組みをされています。そんな中で私は皆さんと情報交換をすることで一緒に盛り上げていく楽しさを味わわせていただいています。これからも素敵な輪が広がり、地域の活性化につながればと願っています。

藤本 素晴らしいメッセージですね。地域の皆さんや子どもたちのために、これからもますますご活躍ください。今日は楽しいお話をたっぷり聞かせていただき、どうもありがとうございました。

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