藤本 コンサートお疲れ様でした。今日は対談の前にあんな素敵なライブを拝見させていただけて、本当によかったです。ありがとうございました。 
中村 歌だけでなく、会場の雰囲気も感じていただけましたか。
藤本 ええ。驚いたのは、ざわついていた会場が開始ベルとともに静まり返り、皆さん襟を正してステージに向かわれたのです。
中村 そうですか、うれしいですね。
藤本 それに1曲目から、会場のあのノリようには、ビックリでした!
中村 今日は、デビュー20周年記念の感謝を込めたコンサート。『夜もすがら踊る石松』のCDを買ってくださった方の中から、抽選で450人をご招待という企画でした。
藤本 2時のコンサートに、朝9時から並んでいた方もいらっしゃったそうですよ。それにしても素晴らしいライブ、心から楽しませていただきました。中でも『河内十人斬り』のうたいっぷりはすごかったですね。
中村 自分でも思わず入り込んでしまい、次の曲に入るまで、気持ちを落ち着かせるのに時間がかかりました(笑)。
藤本 「熱唱」という言葉では物足りないくらい、恐ろしいほどの凄みがありましたね。
中村 以前、作曲家の古賀政男先生が「歌は心でうたうもの」と言われましたが、「どないして心でうたうん?」と、若いころはずっとその意味がわからなくて。
藤本 周囲からは、すでに認められていたわけですしね。
中村 声もいいし、こぶしもうまく回せるしと満足している私がいたんです。でもメジャーデビューし、「好きな歌をうたわせていただいているんだ」と実感したころから、だんだんとその意味がわかるようになってきたんです。今でもまだまだですけどね。
藤本 そんなことはありません。あれほどの表現力! 歌が上手な人はいても、心で歌える人は、なかなかいないと思います。歌手としての経験や実績もそうですが、人間としての幅の部分なのでしょうね。
中村 デビュー前から「ドサ回り」と呼ばれる歌の仕事をずっとやってきました。うたってきた時間の長さは、相当なものです。
藤本 下積み時代を経てなおも続けられたのは、信念があればこそですね。
中村 一言でいえば、歌が好きでしたから。父はお風呂屋のボイラーマンでしたが、私はいつも父と一緒に仕事場のラジオを聞いていて、歌が好きになったんです。お風呂場ですから「天然エコー」がかかるでしょ。とくにうまく聞こえたんでしょうね。「美律子は歌がうまいから、絶対に歌手になれる」って。
藤本 物語は、お風呂場から始まった!のですね。
中村 父が無理をして歌謡教室に入れてくれたのは、8歳のとき。「のど自慢」で優勝したのは中学1年生のときで、そのころから「みっちゃん、十八番うたってや」と方々で言われ、みんなからごほうびでお菓子やたまごをもらったりしていました。
藤本 お父さん、自慢の娘さんだったんですね。 
中村 ほかのきょうだいからは、「みっちゃんばっかりずるい」と言われていましたね。母が病弱で5人きょうだいでしたので、姉と2人で小6まで新聞配達をしていました。朝5時に朝刊を、夕方4時には夕刊を配りますが、友だちと遊んでいる途中で抜けるのがつらかったし、我慢も多かったですね。
藤本 皆が手を取り合って生きていた時代ですね。
中村 うちは特別。私が中1のときに母が亡くなり、父の給料では食べていけず、姉を残してきょうだいバラバラに。私は鉄工所の社長の家、3人は京都の叔母の所へと。別れ際に「泣いたらあかんで!」「がんばりや」「また一緒に暮らそうな!」と、話しました。だからこそ、絶対歌手になって稼いで、みんなを喜ばせてあげたかったんです。
藤本 苦労の中でも家族がお互いを理解し、美律子さんの夢を応援されたのですね。
中村 周りで応援してくれる人もたくさんいました。近所の市場では「八百屋の○○さん、お電話です」という館内放送があり、アナウンスがないときには「みっちゃん、うたって」とマイクを持たされて、アカペラでうたっていました。大人がみんなやさしくて、どの子も分け隔てなく育ててくれた。貧しくても「いい時代」でしたね。