スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

創作落語への飽くなき挑戦  落語家  桂 三枝さん

『新婚さんいらっしゃい!』をはじめ、数々のテレビ番組の名司会でおなじみの桂三枝さん。創作落語『ゴルフ夜明け前』で文化庁芸術祭大賞受賞ほか多くの栄誉に輝き、現在も新作落語の創作と舞台を精力的にこなす落語家としての存在も比類ない。40年にわたり「笑い」の第一線で活躍される三枝さんが求める笑いについて、長年つくり続けている創作落語への思いなどを伺った。

 

落語家 桂 三枝さん
かつら さんし  1943年堺市出身。関西大学商学部在学中に落語研究会を設立。1966年3代目桂小文枝(故5代目文枝)に入門。ラジオの深夜放送やテレビ番組の出演で一躍人気スターへ。テレビ、舞台、映画で活躍する一方、150席以上の新作落語を生み出し続ける創作落語のパイオニアとして文化庁芸術祭演芸部門大賞、上方お笑い大賞など数々の賞を受賞。2003年上方落語協会会長に就任。上方落語定席の実現に向け、天満天神繁昌亭開設準備委貝会代表として活動に尽力。2005年には母校の関西大学文学部客員教授として「笑いの人間学」を担当。大阪府教育委員会こころの再生委員ほか多数要職を兼務。真由美夫人との間に1男1女。『桂三枝大全集〜創作落語125撰〜』(キングレコード)は全CD62枚、ビデオ31本の大全集。『桂三枝という生き方』(ぴあ)ほか著書多数。
http://www1m.mesh.ne.jp/vrk/34

こわがり屋でさびしがり屋の少年

藤本  先日は独演会におじゃまして、三枝さんの落語を生で拝見しました。会場のお客様と一緒になって笑い転げ、とても楽しかったです。いつもあんなに盛り上がるのですか。 桂 三枝さんとの対談写真 その1

三枝 たいがいあんなもんですが、高座は生物ですから毎回お客様の反応も随分違うし、ぼくの調子も違う。枕も異なるし、落語の内容も思いつきでパッと言い変えることもあります。

藤本 拝見した3席は、どれも身近な話ばかり。ああいうネタは、どうやって考えられるのですか。

三枝 人に会って話を聞いたり、本で読んだり、テレビで見たり。またぼく自身の多少の経験も盛り込んでいます。でもまあほとんどの物語は、頭の中でつくり上げたものです。

藤本 それにしては、あまりに細やかな描写。『妻の旅行』の夫婦の会話なんか、お客様全員が「うちと同じだ」って顔して笑っていましたよ。

三枝 古典落語と新作落語と反流のようにいわれますが、創作落語は現代のエンターテインメント。ぼくは、笑いというものは常に時代に寄り添っていかなければならないと思っています。落語は本来大衆芸。それが次第に大衆と遊離していったところがある。明治でも大正でも、ぼくのように一生懸命に落語をつくっている人がいたわけです。

藤本 なぜ創作に興味を持たれたのですか。

三枝 噺家になってすぐにテレビやラジオの仕事をやったので、司会者としての口調が古典に合わなくなった。それにぼく自身の生活が大衆・庶民とは離れてしまったというのもありますね。

藤本 落語にこだわられるのはなぜですか。

三枝 幼いころの原体験に落語がある。その楽しさに酔いしれたことは、今も深く残っています。

藤本 子どものころはどんなお子さんでしたか。

三枝 こわがり屋でさびしがり屋。わりともの静かな子どもでした。ぼくが生まれた翌年に父は戦病死し、母はぼくを連れ叔父の家に身を寄せました。幸い叔父の家族にはかわいがられましたが、母は外へ出て働いていましたから、どこか遠慮というか、気を遣うようなところがありましたね。

藤本 さびしさもあったのでしょうか。

三枝 ほかの環境を知らないし、境遇を悲観することなく、自然に受け入れていました。叔父の家は大正区にありましたが、母は梅田の料理旅館に住み込みの仲居として働き、週末だけ帰ってくるという生活。頼れる者がいないさびしさから、妙に人懐っこいというか、どうすれば人の心がつかめるかを常に考えているような子どもでした。

藤本 お母様もさびしかったでしょうね

三枝 ぼくを不憫に思う母は週末ごとに、やれ流行の服だ、やれ新しいおもちゃだと買ってくる。おまけにキタやミナミへ出かけては、ハンバーグやチキンライスを食べさせてくれた。ぼくは食べ慣れない食事でおなかをこわしたり、友だちと違う派手な服を着せられたりで、ありがた迷惑なところもありました(笑)。

藤本 お母様にすれば、精一杯の愛情ですね。

三枝 その実感はありました。それに、母が買って帰るドッジボールや野球のグローブが友だちにウケて、みんなはそれを目当てにぼくと遊んでくれました(笑)。ぼくは見ているだけ。それでもそうやってみんなが来てくれるのがうれしかったし、友だちをなるべく遅くまで引き止めようと、物真似をしたりして、あれこれ頭を使いました。

藤本 友だちに帰ってほしくないんですね。

三枝 ひとりになると余計にさびしくなる。友だちが帰ったあとの楽しみといえば、もっぱらラジオでした。小学校高学年のころによく聞いていたのが『新諸国物語・紅孔雀』。ラジオは映像のない世界。物語の中にどっぷりと入り込み、それは楽しかったですね。「主人公の住む家は? その家のある町は?」と、子ども心に想像力をかき立てられましたよ。

ラジオに想像力をかき立てられて

藤本 私たち世代も含め、今はテレビ中心の生活ですから、そういう空想の世界を知りません。

三枝 テレビは必ず説明を付けて、想像力を封じ込めてしまう。貧しかったあの時代、物がなかった分、夢見ることを教えてくれた。結果的にそれが、ぼくを落語へと導いてくれたんだと思います。

藤本 クラブ活動はやっていましたか。

三枝 家じゅうの本を読んでしまい、あとの楽しみはもう絵を描くことくらい。中学校で絵画部に入り、絵の基本を学びました。落語でも登場人物を描くとき、その人がどんな風貌でどんな所にいてというのが、頭の中でイメージできるんです。

ターニングポイントになった芸術祭大

藤本 絵本を出したり、二科展に出品したりもされていますね。

三枝 趣味程度ですね。描くことが好きなんで、今も理事会やら何やら難しい会議では、大事な資料に人の顔とかいろいろ描いています。テストの答案用紙にもたいがい絵を描いていました(笑)。桂 三枝さんとの対談写真 その2

藤本 学生時代にそういう子、いましたね。それに、三枝さんは大変な読書家だとか

三枝 歴史の本がとくに好きですが、ジャンルにこだわらずにいろいろな本を読みます。

藤本 創作落語に続いて、大河歴史小説『ゴルフ夜明け前』も執筆されましたね。

三枝 実はそのころ、ある悩みを抱えていたんです。20代からテレビで売れに売れ、東京と大阪を行ったり来たり。考える間もなく仕事をこなしてきたために身体に変調をきたしたんです。自律神経失調症といって、恐怖感にかられ、めまいや動悸などさまざまな症状があらわれる病気です。

藤本 レギュラーを抱え、仕事は大丈夫でしたか。

三枝 仕事は休みませんでしたが、どこかこう、いつも頭の中がポーッとしているような…。そこで仕事も少し整理して、セラピーの意味も兼ねて執筆を始めたんです。生活のリズムを変えて、自分を見つめ直すことにもなりました。

藤本 小説は、落語づくりとはまた違いましたか。

三枝 小説なんて簡単と高をくくっていたらとんでもない。坂本竜馬がクラブを持って長崎の町を走るシーンを書こうとすると、彼がどんな男で、そのとき月がどう出ていて、当時の町の人はどんな服を着て何を食べていたかを知らなければ描けない。ついにはオランダの図書館に行き、250年前の商館の日誌を紐解くことになりました。

藤本 相当の思いでつくられたのですね

三枝 小説は約1年で完成し、その後、念願の映画化も実現しました。それとともに、ぼくの身体も徐々に快復してきたのです。

藤本 創作落語『ゴルフ夜明け前』は、三枝さんのターニングポイントになったそうですね。

三枝 文化庁芸術祭に参加し、大賞をいただいたんです。この受賞は、ぼくにとっては非常に大きなものでした。まだまだ評価の低かった創作落語が認められた。しかもテレビなどのチームプレーではなく、落語という個人芸が認められたことで、ぼく自身ものすごくうれしかったんです。桂 三枝さんとの対談写真 その3

藤本 落語を続けてきた甲斐がありましたね

三枝 ところが喜びも束の間。今まで「三枝くん」と呼んでくれていた人に「師匠」と呼ばれることが、次第に重荷になってきた。日本のテレビ界は芸を見せるための場である前に、スポンサーの広告活動の場であるという現実。落語家としての評価はその分格上という感じになり、テレビのほうも使いづらい。これがひとつの契機となって、はっきりと方向性を見極めたのです。

藤本 具体的にはどのような?

三枝 全国各地の高座を増やすと同時に、これからも創作落語を続け、それを残していくことに努めようと。創作落語は、常に「ここをもう少しこうしたほうが…」となるから完成はありません。それでも「どこかで残しておかないとキリがない。やるなら脂の乗った今しかない」と、毎月独演会を開催するという、落語マラソンさながらの企画『創作落語125撰』をスタートさせたのです。

藤本 完走までには、ご苦労なさったでしょう。

三枝 必死で落語に取り組んだ3年半。今までこれほどしんどかったことはありません。うれしかったのは2度目の芸術祭大賞の受賞と、人間国宝の桂米朝師匠から「上方落語を全国区にしてくれた」とおほめの言葉をいただいたことです。応援してくれた皆さんにも、本当に感謝しています。

藤本 ところで、これまでの人生で影響を受けた人物といえば?

三枝 母には、箸の上げ下ろしから、礼儀作法や言葉遣いまでを厳しく教えられました。人と関わる世界で、どれほどこれが役に立ったことか。

藤本 仕事ではいかがですか。

三枝 高校の演劇部で友人と組んで漫才をやっていたころ、先輩がプロとして漫才の世界へ。レツゴー三匹の正児さんですが、その関係で初めてやすしさんと出会ったんです。同じ歳に思えないほど、やすしさんは大人びていたというか、迫力があった。「こんなこわい人がおるとこではできないな」というのが当時のぼくの感想でした(笑)。

藤本 その後デビューして、やすしさんとご一緒されたときはどうでしたか。

三枝 ある日、やすしさんに「ちょっと来い!」と呼ばれたんです。殴られるのかと心配しながら行くと、「君、評判悪いぞ」と切り出したんです。

藤本 どういうことですか。

三枝 当時は殺人的なスケジュールでしたから、出番の順が変わったりして共演の皆さんに迷惑をかけたりするんです。おまけに終わったらすぐ次へと移動するから、きちんと謝ることもできない。周りの年長者にしてみれば「若いのに生意気な」となるわけです。でもやすしさんはこう続けられた。「いろんなことを言うやつがおるが、気にせずマイペースでやれよ。人間ちゅうもんはなまけもんやからな。常に叱咤激励、厳しくこうやろ、ああやろとわが身に課してやれよ。立ち止まったらあかん。先へ先へ。わしは梅田の地下街でも前の前の前の人を見てサッと抜いて行くんやぞ」と。

藤本 アドバイスをくださったのですね。 桂 三枝さんとの対談写真 その4

三枝 言葉にやさしさがあった。やすしさんをいろいろ言う人もいますが、ぼくは大好きでした。破天荒なやすしさんに比べてぼくは、どちらかというと、全く面白味のない人間。

藤本 お笑い界では、三枝さんが変わった人?

三枝 藤山寛美さんにも「君みたいな芸人さん初めてや」と驚かれました。ぼくには押しの強さがない。だから無理して笑わさなくても、いい印象を持たれるようにしよう。そのときは印象が薄くても、きっとそのほうが長く愛されるだろうと。

藤本 40年も第一線で活躍され、広くたくさんの方に愛され続けているのは素晴らしいことですね

三枝 本当にありがたいことだと思っています。

落語文化を次世代につなげたい

藤本 今後のことを伺わせていただけますか。

三枝 落語という文化は、非常にシンプルでよくできている。この芸の形を次世代につないでいくことがぼくの役目。それには、自分の落語をより面白く、楽しく練り上げていくことが先決です。

藤本 お弟子さんにはどのような教育を?

三枝 人に対して、親切にやさしくと教えるだけで教育はしません。落語の間やリズムは、何度も稽古して高座にかけて身体で覚えていくこと。ですからぼくの仕事は、どの落語会でも弟子たちより早く着替えて、舞台袖で見守ることくらいです。

藤本 上方落語協会の会長さんとしては、いかがですか。

三枝 今は大阪に寄席の定席をつくるために、さまざまな活動をしています。

藤本 落語専門の劇場を建設するのですね。

三枝 かつて落語や浪曲小屋が立ち並んでにぎわった大阪天満宮の北門前に、天神橋筋商店街の皆さんのお力添えで土地の無償提供を受け、今夏には天満天神繁昌亭をオープンするという夢の実現に向け、市民募金を呼びかけています。落語とふれあう機会を増やし、若手を育てることにもつながります。300年の歴史を誇る上方落語の息を吹き返すには、市民一人ひとりの思いが大切です。

藤本 最後に、大阪府教育委員会こころの再生委員会のメンバーでもある三枝さんですが、今の教育や社会に対し、メッセージをいただけませんか。

三枝 子どもたちには、強く、たくましく、夢を持って生きてほしい。大学や会社がゴールではなく、そこからがスタート。人生にはもっともっと楽しくて面白いことがあるよと伝えたいですね。

藤本 大人たちにはどうですか。

三枝 家庭でも学校でも、ああしなさい、こうしなさいとお知らせするだけで、語り合うことがない。大人も忙しいけれど、ちょっと手を休めて子どもと語ることが大事。驚くことに、最近は、人前で話せない、人とつきあうのが苦手なんていう先生もいる。もう少し先生方もしっかりしていただきたい。礼儀や感謝、思いやりの気持ちは、人との関わりの中で自然に学んでいくものです。

藤本 大阪市では、落語を総合的な学習の時間に取り入れている学校もありますよ。

三枝 学校で『寿限無』が流行っていると聞きましたが、ただ長い名前を覚えているだけらしい。あれには「大事な子どもにいい名前を付けてやりたい」という親心があるのに、表面だけでは違うなあって。機会があれば、小学校高学年くらいの子どもたちに、生の落語を見てもらいたいですね。桂 三枝さんとの対談写真 その5

藤本 ぜひ実現してほしいですね。

三枝 ぼくが昔、学校で観た映画やお芝居に感動したように、落語は文字とは違った感動を与えられるはず。その中でいろいろなことを想像し、夢を見ることの素晴らしさを知ってほしい。繁昌亭にも、ぜひ足を運んでもらえたらと思います。

藤本 まだまだお役目がたくさんの三枝さんですが、これからもお身体に気をつけて、ますますご活躍ください。今日はありがとうございました。

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