スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

ぼく自身を歌い続けたい ミュージシャン 桑名正博さん

ご存知『セクシャルバイオレットNo・1』の大ヒット以来、ライブやコンサートをはじめ、テレビ、映画、舞台などでの長きにわたるアーティスト活動、一方では大阪自由学院の理事長としても大活躍の桑名正博さん。困っている人を見れば放っておけない人情肌の人柄が人を呼び、数々のボランティア活動にも精力的に参加。そのやさしさと思いやりの根源に迫る!

 

ミュージシャン 桑名正博さん
くわな まさひろ  1953年大阪市天王寺区生まれ。1971年渡米。帰国後の1972年「ファニー・カンパニー」を結成、ヴォーカル&ギターとしてデビュー。1976年アルバム『WHO ARE YOU』でソロ活動開始。以降『哀愁トゥナイト』『月のあかり』『セクシャルバイオレットNo.1』などをヒットさせ、スピード感あふれるヴォーカルとグルーブ感で、ロックヴォーカリストとしての地位を確立。ライブ・コンサート活動のほか、大晦日の「NEW YEAR ROCK FESTIVAL in KANSAI」などROCKイベントのプロデュースも手がける。現在は、関西や東京を中心にライブを展開。一方で大阪自由学院の理事長として、また車いすバスケットボールチーム「ネットライダーズ」主宰者として活躍中。

万博広場でのロックとの出会い

藤本 桑名さんといえば、やはり『セクシャルバイオレットNo・1』。テレビでいつも拝見していましたよ。今も鮮明に覚えています。 桑名正博さんとの対談写真 その1

桑名 デビューして8年目、初めてオリコンで1位になりました。といっても、ぼく自身、忙し過ぎてわけがわからなくなっていた。あのころは流されて雰囲気で歌っていたんでしょう。

藤本 曲も桑名さんもかっこよかった。桑名さんは、男性にもすごく人気がありましたよね。

桑名 粋がっていましたからね。でも今は、かっこつけてもしょうがない。それに、ぼくもいろんなことがあって今がある。人間は中身で勝負だから、いまだに毎日が感謝と勉強です。

藤本 真面目なんですね、桑名さん。昔のイメージと違うかな? とても人のよいおじさま風。

桑名 昔は相当わるかったみたいだね。自分で意識して変えたわけじゃないんだけど。

藤本 そのあたりも伺いたいのですが、子どものころの話から聞かせてもらっていいですか。

桑名 大阪市立住吉小学校から神戸の私立中学校へと進んだけど、途中で退学。がんばって受験勉強をしたのに、いざ受けてみたらあまりに簡単で、「なんや、こんなもんか」とがっかり。俗にいう「ボンボン学校」で、毎日1万円を平気で使う友だちもいたし、今は知らないけど、当時は学者肌の先生が多く、子どもに知識を詰め込もうとする。「ほんまに子どもに愛情あんの?」と疑問を感じた瞬間から、学校に行く気がしなくなっちゃった。中2の2学期でした。

藤本 不登校なんて言葉もなかった時代ですね。

桑名 学校へは行ったり行かなかったり。馬術部だったぼくは、校舎とは別の、御影(神戸市)の馬場にはひんぱんに顔を出していましたよ。

藤本 馬に乗っていたんですか。

桑名 高校生、大学生もいる馬術部で、中学生はまだ新人。馬の面倒や先輩のお世話なんかで大変でした。でも楽しかったからすすんでやっていました。夜10時にエサをやるために泊まって、朝も馬の面倒を見てから登校。そのうち学校がおろそかになり、出席日数が足りなくなって、いよいよ「ぼくの旅」が始まるわけですよ。

藤本 「ぼくの旅」っていいですね。

桑名 自主退学という形で中学校を出て、地元の大阪市立阪南中学校に再び中学2年生として編入。同級生といってもパーマをかけて大人びていましたし、実際は一つ上です。みんなとは距離があったんでしょうね。そこでも行きづらくなっちゃった。でも驚いたことに、担任の先生や同級生が毎日、家まで迎えに来てくれました。地域の学校のあたたかさを実感しましたね。

藤本 「学校なんて」と思っていても、そんな風にされたらうれしいですよね。

桑名 おかげで中学校は無事卒業。万国博覧会の年でした。話題の「月の石」見たさに万博会場のステーキ屋のアルバイトに就いたぼくは、ちゃっかり、その夢を叶えました。

藤本 まさに「生きる知恵」ですね。

桑名 万博のアルバイトは面白かった。ある意味、人生のターニングポイントともいえる衝撃的な出会いがありました。それは、万博広場で連日開かれていたロックコンサートです。

藤本 日本のロック、幕開けのころでしょうか。

桑名 中学を休みがちだったぼくに、気晴らしにと母が買い与えてくれた一本のギター。万博広場で初めてジョー山中さんを見て「うわぁ、やっべー。『禁じられた遊び』を弾いてる場合じゃないぞ、こりゃ。アメリカに行かなきゃどうにもなんないな」って。

音楽好きな若者たちに選択肢を

藤本 渡米したのはおいくつのときですか。

桑名 高2のときですが、洋上大学なら半年ステイができるというんで、「何をどうするかはあとで考えよう」と、とにかく船に飛び乗った。

藤本 アメリカは、どうでしたか。

桑名 サンフランシスコのYMCAに落ち着き、その後、ロサンゼルスへ。その間、ゲイにおそわれそうになったり、ヒッピー族に混じって歌ったり。ロスでは「障子貼り」のアルバイトで、けっこういいお金を稼ぎました。 桑名正博さんとの対談写真 その2

藤本 今でこそフリーターが認められ、若者が自由に生きられる時代になりましたが、当時はまだまだでしたでしょう。

桑名 ぼく自身は人目は気にしないし、けっこう流されるタイプ。でも不思議とラッキーな出会いや出来事があるんですよね。帰国のきっかけは、栄孝志さんとの出会い。一緒にコンサートを見て回るうちに「よし、東京に行って、こいつと一緒にバンドをやろう!」とひらめいたんです。東京では、青山のバーで住み込みのアルバイトをしたり、原宿で歌っていた音楽仲間のアパートに居候したり。それが「ファニー・カンパニー」のデビューへと続きます。

藤本 人生はドラマですね。ところで、そうやって次々とやりたいことを叶えていく桑名さんですが、ご両親の反対はなかったのですか。

桑名 中学生でフラフラしていたころは、さすがに母はヒステリックになっていました。梅田でゴーゴーガールのような女の子をひっかけたり、友だちの家を泊まり歩いたり…。

藤本 お母様が心配するのも無理はありません。

桑名 ぼく自身が決めたルールは「親には必ず居場所を教えること」。夜中の2時に電話して「今、○○というバーにいるから」は日常です。

藤本 私も娘たちに「電話だけは入れて」が口ぐせです。その電話一本で、どれだけ安心か…。

桑名 親父は「ファニカン」のデビューが決まってからは、一切何も言わなくなりました。家業を継がせるのを、あきらめたようです。

藤本 息子の力を認めたのでしょうね。

桑名 ずっと勝手なことばかりやってきたので、デビューを喜んでくれたときは、そりゃあぼくとしてもうれしかったですね。

藤本 現在は、歌手としての活動だけでなく、いろいろな顔をお持ちの桑名さんですが。

桑名 大阪自由学院という学校の理事長をやっています。音楽好きな若者たちに自由に音楽を楽しんでもらい、チャンスや才能があれば、その道で食べていくこともできるよ、と可能性を広げてあげる。大きな特徴は、卒業すれば高校卒業の資格が取れること。実体験をいえば、普通の学校現場ではなかなか音楽を深めることができない。しかも「ロック=不良」のイメージがあって、世間的にはけっこうつらいんです。

藤本 今さら「ロック」がとやかくいわれる時代ではありませんが。一方では音楽のような感性教育の重要性をうたいながら、もう一方では「ゆとり教育」の見直しで、ますます音楽の機会が減らされていく。なかなか難しい問題です。

桑名 お役所が決めたことには逆らえません。若者たちのため、それからバンドでいえば「主役」を除くほとんどの連中が高い音楽技術を持っていても、それだけでは食べていけない現実がある。そこで彼らのような現場で活躍するミュージシャンを講師にした、東京自由学園という音楽学校ができました。学園長は佐倉一樹というミュージシャン。その後、大阪にも学校をつくりたいと、ぼくに声がかかったのです。

藤本 少しずつ社会が変わり、仕事や人生の価値観も変わってきました。好きなことで食べていこうという若者も増えていますよね。

桑名 学歴社会じゃないといいながら、現実にはまだまだ。チャンスを手にするためには、高校卒業の資格も必要でしょう。うちの学校が学生たちの夢を具現化できればうれしいですよね。

藤本 生徒さんたちを見ていてどうですか。 桑名正博さんとの対談写真 その1

桑名 子どもたちには夢があるから、みんな輝いています。学校も活気がありますよ。でも中には、行き場がなくて来た子もいる。そういう子にはフォローも大切です。音楽じゃなくてもいいから、生きる希望や目標を見つけてほしい。社会もわるいけど、親が変わっていかなきゃね。

藤本 今の社会をつくっているのは我々です。何より家庭で考えるべき問題も多いのでしょう。

桑名 親はもっと子どもを遊ばせるべきでしょう。そして、大人たちこそもっと実直になるべきです。真面目に働いて、常に先へ行くことを考えて勉強を重ねていく。そうすれば、子どもも考える。大人たちが自分の子どものことだけでなく、社会全体のことを考えて行動していかないと、世の中は変わっていかないでしょう。

藤本 ご自身の子育てはいかがですか。

桑名 美勇士は23歳、錬は16歳でまだ高校生。強制したわけじゃないけど、2人とも音楽の道に入りました。親父と息子というよりは、何でも話せる友だち同士のような関係です。

藤本 うらやましい! 普通は、なかなか本音でぶつかれないものですよ。

桑名 親父が完璧じゃないから、いいんじゃないかな。人間として、人のためにどんな人生が送れるか、なんてことを話しますね。

ボランティアという言葉は苦手

藤本 桑名さんは、ボランティア活動も積極的にされていますよね。

桑名 ボランティアという言葉は好きじゃないけど、周りにたまたま困っている人がいたから、ぼくにできることをやってきただけです。

藤本 そもそものきっかけは?

桑名 大阪市長居障害者スポーツセンターができたときに、コンサートをやったのが最初だったでしょうか。地域の人たちとつながりができると、あちこちから呼ばれることが多くなりました。また現場でも、障害者の方と直接のご縁ができ、その輪はどんどん広がっていきました。

藤本 障害者ボランティアに対し「芸能人のきまぐれ」と陰口をたたかれたこともあったとか。

桑名 ぼく自身は何の企みもないから、いちいち相手にしませんよ。最近は、そんなことをいう人もいなくなりましたけど。

障害者と健常者の垣根を越えて

藤本 さまざまな活動をされていますよね。

桑名 16、17年前のことですが、東京ボランティア・センターからコンサートの依頼を受けた。ところが、直前にキャンセル。理由は過去のドラッグ問題です。ぼくは自分の火種ですからすぐに納得した。しかし、関係者たちがそろって「申し訳ない」と謝罪し、イベントができなかったことを悔やまれるのです。そこで「不良のボランティアチームをつくろうよ」と一念発起。安岡力也、ジョー山中、ミヤコ蝶々さん(不良?)たちを集めて、最初の企画とは別にクリスマスコンサートをやったんです。

藤本 マスコミでも話題になりましたね。それにしても、そうそうたるメンバー! 桑名正博さんとの対談写真 その4

桑名 方々から、一気に引き合いがきました。でも「オレたちはプロや。みんなボランティアでやるわけないやろ!」と断言したんです。言いたいのは、お金じゃなく、気持ちがすべてだということです。誰かと心がつながって、その「心」に人々が引っ張られて初めて発動する。

藤本 ボランティアの定義はあいまいだし、一過性のものも多いですね。自分ができることといっても、簡単なことではありませんよね。

桑名 「シャンテ」という視覚障害者のロックバンドとも出会いました。彼らの音楽に対する思いとともに音楽性の高さに感動。同時に、芸能界というところの障害者への配慮の薄さを知って、腹が立ちました。これだけバリアフリーがいわれている中で、いまだに市民権を得られていない障害者の音楽活動。「ぼくにできることは何だろう?」と考えたのです。

藤本 自らチャリティーの発起人となって立ち上がったわけですね。

桑名 障害者ミュージシャン救済チャリティー「ハートエイド」という活動を開始。方々へ出かけては歌っての募金活動。企業や個人の協力者が大勢集まって完成させた『青春に負けないで』という曲。このときは、本当に感無量でした。みんなで心をひとつにしてつくる喜びは何ともいえなかった。これが、本物の音楽だ!って。

藤本 私も新聞や雑誌をつくっているのでわかります。みんなが本気で心をつなげなければ本物はつくれない。ものづくりは皆同じでしょう。

桑名 「心」が集まれば、これほどすごいエネルギーはありません。関わらせてもらえること自体が幸せだし、ぼくものめり込んでいきました。そんな最中の阪神大震災。西宮にいた母を含めたくさんの友人、知人が被害を受けました。とにかく何かできることはないかと、「ハートエイド」をそのまま「心にバンドエイドを貼ろう」という活動に変え、シールをつくり2枚200円で売ったんです。「1枚は自分、もう1枚は誰かに貼って」という「心」をつなげる運動です。

藤本 ネーミングといい、タイミングといい、運命を感じますね。人々は、震災でやさしさや命の大切さに気づいたといいますね。

桑名 ぼくもたくさんの仲間を感じたし、自分がやらなければいけないことが見えてきました。

藤本 被災者支援にも奔走されたそうですね。

桑名 痛感したのが、ぼく自身に歌える曲がなかったこと。考えたら『セクシャル〜』も『月のあかり』も、人を元気にする歌じゃないからね。これはきっと、自分の思いを込めた曲を本気でつくれということだな、と。

藤本 震災は、ミュージシャン桑名正博にとっても大きな転機になったようですね。

桑名 1998年にJC(日本青年会議所)の依頼があって「ふれあいピック」という障害者のスポーツイベントに呼ばれたんです。そのとき長居障害者スポーツセンターの方から「ステージ上で車いすに乗って歌ってほしい」と言われ、快諾したものの、車いすなんて乗ったことがない。事前に慣れたほうがいいと、車いすバスケットボールの練習に参加させてもらうことになったのです。これが思いのほか難しかった。でも理屈抜きで気持ちがよかった!

藤本 その魅力を知ってしまったわけですね。

桑名 健常者でもプレーができることを知ると、何事も手を抜けない性格が災い(笑)し、本気でチームをつくろうという話になった。インターネットで呼びかけ、チーム名は「ネットライダーズ」でいくことになりました。

藤本 現在の活動はどんな状況ですか。

桑名 定期的に練習をしています。最近では、常時20〜30人のメンバーが参加しています。

藤本 一番の魅力は何ですか。

桑名 障害者と健常者が一緒にスポーツを楽しめる。同じ目線でものを見る経験がどれだけ大事なことか。だからこそやり続けたい。少しずつでもいいから、車いす生活者に対する善意と理解の輪を広げていこうと思っています。

藤本 誰かのために一生懸命に続けることの素晴らしさ。いろいろな価値観との闘いもあると思いますが、ぜひがんばってください。最後に、今後の活動を教えていただけますか。 桑名正博さんとの対談写真 その5

桑名 これまでいろいろなつまずきがあって、そのつど多くの人たちに支えられてきた。震災のときに無我夢中でやった経験があって、今のぼくがある。50歳を迎え、先のことを考えると、やはり音楽、そしてボランティアを続けていきたいですね。もちろん力尽きるまで求められる人の所へ足を運び、歌っていきたい。4月にはライブ、6月にはCD発売も予定されています。そこでは桑名正博として何を伝えられるか。ぼく自身を生で感じてほしいと思います。これからが本当のぼくの「ひとり旅」の始まりです。

藤本 私もぜひ、ライブに伺わせていただきます。これからも、ますます元気にご活躍ください。今日はありがとうございました。 

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