スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

努力と信念で世界の頂点へ  レーシングドライバー  中野信治さん

16歳で国際カートGPにおいて日本人初優勝・大会最年少記録に輝き、世界を沸かした中野信治さん。F1、CART、IRLと世界最高峰のレーシングカテゴリーで活躍。人気・実力ともに日本が世界に誇る国際派ドライバーが語るモータースポーツ、そして自らの人生について。

 

レーシングドライバー 中野信治さん
なかのしんじ  1971 高槻市生まれ
1987 国際カートGP・香港で大会史上最年少・日本人初優勝中野信治さんとの対談写真 その1
1989 全日本F3に参戦、フォーミュラカーデビュー
1990 英国に渡り、フォーミュラー・ボクゾール、フォーミュラー・
     オペルに参戦。優勝1回、シリーズ5位
1992 全日本F3000選手権、全日本F3選手権にダブルエントリー
1996 全日本F3000選手権改め『フォーミュラーニッポン』2位2回
1997 F1選手権に、プロスト無限ホンダよりデビュー 6位2回
1998 F1選手権に、名門ミナルディーチームに移籍参戦
     シーズン10回の完走
1999 F1トップ4ジョーダン無限ホンダのテストドライバー
2000 CART、ウォーカーレーシングにて参戦
2001 CART、フェルナンデスレーシングにて参戦、入賞
2002 CART、フェルナンデスレーシングにて参戦、入賞
     日本人史上最高位となる4位獲得
2003 IRL第3戦もてぎスポット参戦11位
     IRL第4戦インディ500スポット参戦14位
2004 全日本GT選手権、チーム国光よりフル参戦
     インターナショナル1000km耐久レース準優勝

●中野信治公式サイト
http://www.c-shinji.com

タイムレコードを出した11歳

藤本  昨年11月の全日本GT選手権(※)最終戦では9位という成績、お疲れ様でした。2004年を振り返って、どんな年でしたか。中野信治さんとの対談写真 その

※全日本GT選手権/モータースポーツのシリーズ・レースである「JGT」(JAPAN GT CHAMPIONSHIP)のこと。日本自動車連盟(JAF)公認の年間シリーズ戦。年間数回開催されるレースでポイントを集め、その合計でチャンピオンを決める

中野 ホンダマシンNSXで1年間戦いました。他のチーム(※)も良い成績を残せなかったし、ぼくとしてはやりたいところからはかけ離れてしまい、結果を見れば、それほど悪くはないけれど、ホンダ勢は1年間を通して絶不調でした。

※チーム/マシンの整備をするメカニック、監督たちの総称。

藤本 納得がいかないというのは?

中野 モータースポーツの世界は、ドライバーの技術だけではなく、マシンの性能やチームの力を含めた総合的なバランスのとれた力が重要です。その意味では、悔いが残ります。

藤本 憧れのモータースポーツ、外から見る以上に厳しいのでしょうね。まずは予備知識として、基本的なことを教えていただけますか。

中野 この世界はピラミッド形になっていて、免許がなくてもサーキットを走ることができるゴーカートを底辺に、F3、F3000とのぼり、そしてヨーロッパの頂点がF1。アメリカでそれに値するのはCARTといって、ゴーカートとはスペルからして全く異なるものです。

藤本 一口に「レース」といっても、その種類や内容はさまざまなのですね。

中野 いくつものレースを勝ち抜いた人たちが、最終的に頂点を目指していくわけです。

藤本 まさにその頂点にのぼりつめた中野さんですが、その道のりはどんなものだったのでしょう。生い立ちやきっかけなど教えてください。

中野 高槻市に生まれました。家族は、両親と1つ違いの妹がひとり。今のぼくがあるのは父のおかげです。20歳を過ぎて、たまたま手にしたレース雑誌から興味を持った父が、本格的にレースに出るようになったのです。

藤本 誰でもレースには出られるのですか。

中野 父の仕事は内装業です。マシン、タイヤ、移動費…と、レースにはお金がかかる。ぼくら家族を養いながらですから、それはもう大変だったと思います。平日は毎朝5時から、周りが心配するほど働き、週末を家族みんなでサーキットで過ごすという日々だったようです。

藤本 サーキットで車を見つめていた3歳の信治少年は、やがてその世界へ…。

中野 当時はぼくも、父やその仲間たちの走りを見て、あんなに速く走れるなんてかっこいいな、と思っていただけですけどね。

藤本 きっかけは、お父様の引退だそうですね。

中野 日本レース界最高峰の全日本F2選手権へと順調にステップアップを果たしたところでした。チームやスポンサーとの意見の相違から、それまで支えてくれた方へ義理立てする形で、父はレースを断念したのです。

藤本 無念のリタイア。つらかったでしょうね。

中野 家族とレースのためだけに働き、人を裏切らず、自らの甘えを許さない厳格な父。だからこその選択だったのでしょう。ぼくが父とその友人に誘われてカートを始めてからの、父の熱の入れ方は普通ではありませんでした。

藤本 初めてレースに出たのはいつですか。中野信治さんとの対談写真 その3

中野 11歳のときです。いざ走ってみたら、何となく体が勝手に動いた。そんな感じです。

藤本 イメージトレーニングが効いたのですね。

中野 初めて走った日にタイムレコードを出しまして、驚いた父が「自分にもできない理想の走りをしている! きっと、幼いころから走りを見ていた信治は、本能的に車の走らせ方を学習していたんじゃないか!?」と言ったそうです。

藤本 実際に走ってみた感想はどうでしたか。

中野 腕相撲にかけっこ…。とにかく勝負事が好きでしたね。負けず嫌いは生まれつき。それから乗り物が好きでした。三輪車に始まって自転車へ。そしてゴーカートを与えられた。こがなくていいし、戦う相手もいて、がんばれば一番になれる。楽しくてしょうがないわけですよ。

藤本 中学、高校と進み、学校との両立、友だちの反応などはどうでしたか。

中野 自分から周りに話すほうではないし、「ゴーカート」といってもみんな知りません。レースで学校を休みがちになって、徐々に知られていった感じですね。日曜日は必ずサーキットで練習していましたが、中学校までは友だちと遊ぶ時間もあったかな。でも高校に上がったら、周りから浮いた存在になっていました。

藤本 えっ、どういうことですか!?

中野 徒党を組みたがる年頃ですが、ぼくはそういうのが苦手。常にひとりでいましたね。ケンカを売られても、悪いことはしていないから、頭を下げる理由が思い当たらないんですよ。

藤本 売られたケンカは?

中野 仕方ないから、買いました(笑)。トレーニングをしていたし、絶対に負けない自信も、プライドもありました。

藤本 16歳で国際レースに初優勝!なんて目立ったことをして、クールなところが余計に面白くない、生意気だ、となるんでしょうね。

自分の世界を持って立ち向かう

中野 ぼくは決定的な世界を持っていましたから、自分を納得させられたんです。でも普通はそうはいかない。やっぱりつらいですよ。お弁当を食べてても、ちょっかい出されるんですよ。中野信治さんとの対談写真 その4

藤本 今は小学校くらいから、そんな問題がたくさん起きています。ストレスを抱えた子どもも少なくありません。
中野 いじめられっ子のほとんどが、デリケートで心やさしい子どもなんです。だから傷つきやすく、そこを狙われてしまう。ぼくにははっきりとした目標があったし、幸い、心やさしい両親に恵まれていました。でも傷つく子どもの気持ちはよくわかるから、安易に戦えとはいえないし、結局、最後は親の教育だと思いますね。

藤本 ご両親を尊敬なさっているんですね。

中野 生き方の師といえるでしょう。親に勉強しろとか、何してるとか、言われたこともないし、18歳で家を出るまで、部屋に入られたこともありません。ただサーキットでは別人でした。

藤本 どんな風に?

中野 走りについては「自分の感性で走れ」と一言。父には「ドライバーとしての心構え」を叩き込まれましたね。とくにメーカーのサポートを受けるようになってからは、プロとしての仕事をきっちりこなせ、5位でも10位でも結果を残せ、と厳しくいわれました。レースはいろいろな人の協力あってのものだから「失敗しちゃった!」では済まされないと。やはり支援者ができてから、ぼくの人生は変わりましたね。

藤本 ドライバーとして、また人生の先輩として、素晴らしいお父様の教えを受けて、どんどん頭角をあらわしていくわけですが、プロでやっていこうと思ったのはいつごろからですか。

中野 16歳で国際カートGPで日本人初優勝・大会最年少記録を出しました。そんな実績を認めていただき、「無限」というエンジンメーカーのワークスドライバー(※)に抜てきされたのです。

※ワークスドライバー/プロフェッショナルのメーカー専属ドライバーのことで、ドライバーとしては最も名誉なこと

藤本 ものすごく名誉なことですね。

中野 喜びとともに、大きな責任とプレッシャーが生まれました。高校で入っていた陸上部も思いきって辞めました。

藤本 世界へ向け、目標を定めたのですね。

勝つためのセルフコントロール

中野 全日本F3へと転向すると、カートのときのように簡単に勝てなくなりました。レースはドライバーだけではできない。監督やパートナー、メカニックなど、チームワークの必要性に、全く気がついていなかったんです。

藤本 海外生活も長かったそうですが、挫折や苦労はありませんでしたか。

中野 19歳でイギリスへ渡り、F1の前座といわれる数々のレースに参戦。そこでの成績は優勝を含むシリーズ5位。結果は良かったけれど、メンタル面ではしんどかった。ヨーロッパの選手は勝つためには何でもするし、実際、レース前の緊張感はすさまじいものがありました。自分に欠けているのは、ハングリー精神でした。

藤本 まだまだ上があったということですね。

中野 目指すは世界の頂点です。エベレストに登ったら、さらに別の山が見えてきたようなものです。つまり、彼らのような天才ドライバーに勝つには、自らの意識を高く持つこと。セルフコントロールの重要性を実感しました。

藤本 具体的にはどのような…。中野信治さんとの対談写真 その5

中野 ぼくは天才ではないから、人より努力するしかありません。トレーニングも食事も私生活も。すべてを「レースで勝つ」という目的のためだけに使うこと。酒やタバコはもちろん、脂もの、甘いものはご法度、人が遊んでいるときにはトレーニングをし、人がテレビを見ているときには本を読んでいます。でも、だからといって勝てるわけではありません。自分の中のモチベーションを上げるということです。

藤本 そこまでやって初めて、人が手に入れられないものを手に入れられるのでしょう。

中野 今持てる目標を叶えるために何が必要かを考えれば、自ずと答えは見えてくる。空想だけではダメだけど「自分がどうなりたいか」をイメージすることで、可能になるのです。「勝てる」と思うこと。自分を信じること。

藤本 志があれば、すべてを可能にする。簡単なようで、すごく難しいことなのでしょうね。

中野 ぼくたちドライバーは通常、スポンサーと1年契約を結ぶわけですが、それらはすべて結果次第。成績が悪ければ、次はありません。イタリアにいたときのこと。翌年の契約交渉がうまくいかず、失意のままに、明日の飛行機で日本に帰ろうというその日、ミラノのショッピング店が建ち並ぶモンテ・ナポレオーネ通りで出会ったのは、ミナルディの当時のオーナーであった、ガブリエレ・ルミさんでした。偶然に見える必然です。徹底したセルフコントロールが、時には「運」さえも呼び起こすのです。座右の銘でもある「信じれば叶う」を実感しましたね。

藤本 大きな目標があれば、何でもできる。何をも可能にする力になるのでしょうね。

チーム力を高めるための人間力

中野 語学にしても、英語さえ話せれば、あとはどうにかなる。イタリアにフランス、イギリスにアメリカと、8年外国にいましたが、暮らしていれば何とかなる。ここで勝ちたいと思えば、現地のスタッフとも理解し合う必要がありますから、それは必死です。

藤本 海外生活を経験された中野さんから見て、今の日本はどうですか。

中野 一言でいえば「不思議な国」ですね。「自分」がないから、常に何かに追いかけられています。日本人は人を見て「あれがいいな、自分もああしよう」と思う。しかも情報化、スピード化社会だから流れが早く、みんなそれについていけないんです。セルフコントロールができない人間が増えているのではないでしょうか。

藤本 大人も子どもも悩んでいて、現実を見ることも、夢を描くこともできなくなっています。

中野 早く目を覚まさなきゃ。人に合わせてバランスをとるだけではダメです。

藤本 レーシングドライバーといえば花形スポーツ。昔は「レーサーになりたい」と夢を語る少年がずいぶんいましたね。

中野 スーパーカーブームのときはいたけど、今は、あまりいないでしょう。

藤本 ViViの夢特集でも「レーサー」という答えはありませんでした。サッカー選手か公務員か…。

中野 うーん、残念ですね。モータースポーツ界にもいいドライバーや人格者もいますが、なかなか評価されません。レースというと、いまだに暴走族の延長だとか、レースクイーンと遊んでいるとか、そんな風にとられがちです。本物のドライバーはそんなものには振り向かないし、車を降りても自分の言葉で語れます。その意味では、日本はまだまだです。

藤本 レーサー・中野信治としての夢は?

中野 2005年のシーズンに向けてスポンサーを集めなければなりませんし、いかにして強いチームをつくるかという重要な課題も残っています。チーム力を増すには、ドライバーのコミュニケーション力=人間力を高める必要があり、それには今、動けるだけ動き、いろいろな人に会って自分で思いを伝え、また教えをいただいて、学んでいくことが大事だと思います。

藤本 準備が整えば、万全ですね。

中野 時速400キロのスピードで数センチをコントロールします。レース中のコックピットは50度にも達し、息が切れ、意識がもうろうとした中での戦いも日常です。心拍数は170を超え、その運動量はフルマラソン(42.195km)にも匹敵します。つまり、スキルもそうですが、これだけの苛酷な戦いに耐え得る体力を維持しなければなりません。ぼくも33歳、世界一を狙うには時間を無駄にはできません。

藤本 これからが真剣勝負。目が離せませんね。

中野 ドライバーとしてやり残したことを完成させて、レーサーを終わりたい。そのあとは、チャンスがあればいろいろなことに挑戦したい。F1、インディ500、CARTと、3つのステージで戦った唯一の日本人ドライバーの使命として、レース界にも関わっていきたいし、何か人を助けるようなことができればと思います。中野信治さんとの対談写真 その6

藤本 最後にもうひとつ。大阪の人々、そして子どもたちに何かメッセージをいただけますか。

中野 ありきたりですが「ぼくも君たちもおんなじなんだよ。信念と努力で夢は叶うよ」と言いたいですね。そして、子どもにとって大切なのは「正しい父の背中と、やさしい母の愛情」。やはり、瀬戸際で引き返せるのは、親の愛であり、生きる姿勢だと思います。

藤本 その言葉に改めて感じる人も多いと思います。私も自身を律し、高い志を持っていきたいと思います。今日はありがとうございました。

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