スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

気品とやさしさがおもてなしの心をつくる  料亭・花外楼女将  徳光正子さん

大阪北浜で170年も続く老舗料亭・花外楼は、天保から明治維新へのカギとなる「大阪会議」が開かれたことで知られる店。5代目女将として活躍する徳光正子さんは、気負わず、自然体で生きる素敵な女性。祖母の代から受け継いだ伝統を守りつつ、ユニークな発想を生かして新しい経営にチャレンジ。新しい時代の女将業に学ぶ、先人の教え、そして、私流おもてなしの極意とは。

 

料亭・花外楼女将 徳光正子さん
とくみつ まさこ  天保年間創業の料亭・花外楼の長女として大阪船場で生まれ育ち、甲南大学文学部社会学科を卒業後、家業に従事。ホテル出店初代店長を経て企画室を創設し、室長に就任。自社ビル「アイルモレ・コタ」を企画プロデュースし、地域のイベント活動を後援。現在は、花外楼女将として母(大女将)とともにつとめる一方、旅行、油絵、観劇と趣味は幅広く、「女性の地位改善」と「国際的、地域レベルでの奉仕」等を目的とした、働く女性の国際ゾンタ26地区エリア4大阪Uゾンタクラブ会長としてもさまざまな活動を展開。大阪商工会議所女性会会員、FEC国際親善協会女性会員など要職を兼務。

●花外楼本店
大阪市中央区北浜1-1-14
TEL06-6231-7214
http://www.kagairo.co.jp

花外楼が舞台となった大阪会議

藤本 今日は、大阪北浜にある「花外楼」へおじゃましました。まずは創業170年の歴史から、お話いただけますか。徳光正子さんとの対談写真 その1

徳光 女将になってまだ十数年。現在の大女将である母・清子、そして祖母の孝から聞いた話、孝が当時の思い出をまとめた著書『花のそと』をはじめ、歴史的な資料を読んで理解した話です。花外楼は天保元年、加賀の国、徳光村の伊助が現在地に、料理旅館「加賀伊」を開いたのが始まりです。

藤本 北浜は、古くから商人の町として栄えた所ですね。

徳光 当時から大阪といえば「天下の台所」、旧淀川は京都に通じ、船が頻繁に行き交っていました。中でも北浜は藩蔵屋敷の並ぶ中心地、「加賀伊」のほかにも料理旅館が軒を連ねていました。正義感が強く俊敏な性格の伊助は、幕末動乱のとき、木戸孝允など勤王の志士たちを身を挺して「加賀伊」にかくまったのです。

藤本 日本の歴史が大きく変わろうというときですね。

徳光 中央集権的統一国家の成立と資本主義化の出発点となった明治維新。その布石ともいえる「大阪会議」の物語が、ここ花外楼を舞台に展開されたのです。

藤本 今になって、歴史をしっかり学んでおくべきだったと恥ずかしいのですが、そのあたりのことがよくわかりません。簡単にご説明いただけますか。

徳光 征韓論(※)を主張した西郷隆盛、板垣退助らの勢力が高まりを見せた明治6年(1873)、維新の3功臣(西郷・木戸・大久保)のひとり、大久保利通は征韓論をうち破り、大きな権力を握りました。征韓論で敗れた板垣らは明治7年、選挙政治を望む「民選議員設立の建白書」を発表し、大久保に激しく抵抗。三権分立(※)を主張する木戸も大久保の政治に不満を持ち、政府から離れました。行き詰まった大久保は政府を強くするために、木戸や板垣の協力が必要と考えたのです。井上馨・伊藤博文の仲立ちにより、大久保利通・木戸孝允・板垣退助を誘い、話し合いの席が持たれました。 これが「大阪会議」です。

※征韓論/幕末から明治初期の対朝鮮強硬論。とくに、明治6年西郷隆盛・板垣退助らによって排日・鎖国下の朝鮮に出兵しようとした主張。内治優先を唱える岩倉具視・木戸孝允・大久保利通らの反対で、西郷ら官を辞して下野。※三権分立/権力の濫用を防止し、国民の政治的自由を保障するため、国家権力を立法・司法・行政の三権に分け、それぞれ独立した機関にゆだねようとする原理。ロック、モンテスキューらによって唱えられ、各国の近代憲法に強い影響を与えた。

藤本 ここが舞台だったと思うと、歴史の重みというか、時代の流れというか。そのドラマがなければ今の日本はなかった。そう思うと、私が今ここに生きていること自体が花外楼さんとつながっているような、とても不思議なご縁を感じるんです。

徳光 明治8年2月11日、「加賀伊」に集まった5人は三権分立と国会制を約束し、やがて新政がスタートします。会議の成功を記念し、木戸は自ら筆をとり「加賀伊」をもじった「花外楼」の3字を伊助に与えてくださり、それが商号となっています。

藤本 歴史の教科書に出てくる人物や事柄が、事実としてここにある。こうして話を伺って改めて考えると、深い感動がありますね。それにしても、彼らが好んで花外楼に通ったのはなぜでしょう。

徳光 正直で潔癖な伊助が、維新の人々の信頼を得たようですね。当時は戦利品を目当てにする者もあったそうですが、伊助はそれを嫌いました。また当時の市長が、橋を架けようと申し出たときも、「そんなことをしたら、町中が橋だらけになる」と断ったそうです。

藤本私も『花のそと』を拝見して思うのですが、男気というか、人間としての潔さというか、それから冷静に先を見て判断する力、そんなものを感じましたね。

徳光 大阪の笑いの文化は、商人たちが円滑な人間関係をつくるために発達したものといわれていますが、一方で身分の低かった商人たちは、当時から人様に笑われることを恥としたようで、それが笑いの文化の土壌となったのです。「商売に生きる者、人様に笑われないような人格をつくるべき」と考えたのです。約束を守るのは、人として当たり前のこと。信頼の基本だったのかもしれません。 

たくさんの人生ドラマとともに

藤本 以来、政界をはじめ財界、官界の方々が続々と花外楼を訪れ、今なお続いているのですね。

徳光 大阪人は質素を好みますが、ここぞというときにはお金を使う。商人たちは、お天道様が見ているからと仕事に精を出し、街に学校をつくり、橋を架けました。徳光正子さんとの対談写真 その2

藤本 自分で得た利益を人々や社会のために生かしてきたのですね。

徳光 人はひとりでは生きられない。だからこそ、心置きなく集える場所を求めたのだと思います。

藤本 天保の時代から、花外楼が、どれだけのドラマをつくってきたことでしょう。

徳光 有名無名を問わず、たくさんの人生の主人公たちが登場します。長く続けばいろいろな人々の思いが重なるので、「集いの場」としての役割は、おかげさまで今も多いですね。縁が結ばれたという晴れがましい「大阪会議」で知れましたから、縁起がいいということで、お見合いの話から銀行や企業の統合・合併、さまざまな発足会、中にはトンネル開通を祝うお席なども。

藤本 たくさんの喜びを共有できるなんて、本当に素晴らしいお仕事ですね。

徳光 それはもう感謝しております。喜んでいただけるよう、心よりおもてなしに努めさせていただきたいと思っています。

先代から受け継ぐ誠実心

藤本 花外楼が受け継ぐ最高のおもてなしとは、どんなものでしょう。

徳光 料亭では、一言でいえば雰囲気づくり。お料理の味や質はもちろんですが、間であるとか、あたたかい気持ちを伝えるとか、そんなものだと思います。お客様がそれぞれに満足して帰っていただけるようにと、常に心がけています。

藤本 価値観やその場の空気はみな違うので、それを読むのは難しいでしょうね。

徳光 お扇子を置いてのごあいさつには、「お互いの空間を大切に」という意味が込められ、お客様のじゃまになるようではいけません。それにはお客様の気持ちを知ること。つまり、相手の方を大切に思う心です。

藤本 お扇子の意味を初めて聞きました。そういう大切な心のマナーなど、語り継いでいきたいものですね。スタッフの皆さんへの教育も大変ではないですか。徳光正子さんとの対談写真 その3

徳光 私自身、日々学んでいる身です。女将業はマニュアルのない仕事。見よう見まねでやってきたのです。あえて、ひとつだけいえば「誠実に」。これは、日ごろからスタッフにも徹底させています。

藤本 おばあさま、そしてお母さまから学んだ一番の教えなのですね。

徳光 のれんのお店の場合、長子は小さいころから仕込まれることも多いのですが、私には選択の道がありました。たまたま祖母が倒れ、看病に付き添った2年間に就職をしそびれ、家業に足を踏み入れたのです。

藤本 女将になる前は、どんなお仕事をなさっていたのですか。

徳光 最初は、便利屋さんのようなものです。下足番、クローク、洗い場、電話の交換手、帳簿付けもやりました。5〜6年ほどして、初めてホテル出店の話が持ち上がり、いきなり店長になったのです。何もかもわからないことだらけで無我夢中。父母に恥ずかしい思いはさせられないと、必死でやりました。幸い、好景気も手伝って、とても繁盛したんです。

藤本 時代も味方してくれたのですね。

徳光 その流れで出店やプロデュースの仕事が必要になり、企画室を立ち上げました。

心を通わせる大切な食卓を

藤本 フランス料理で知られる「アイルモレ・コタ」を企画されたのですね。

徳光 インドネシア語で「水辺の美しい街」という意味です。料理屋は地域の人に愛され、気軽に人が集える場所でなくてはなりません。しかし料亭では少しばかり敷居が高い。そう思ったときに、たまたまビルの計画があがったんです。ここは食べることだけではなく、「集う」ことを目的に人々が集まってきます。 

藤本 女将の夢だった「交流の場」が実現したわけですね。

徳光 当時のエピソードですが、設計などの計画が進む途中で、コンサルタントの方に「外からレストランということがわかりにくいから、はっきりとレストランという看板を上げるとか、外から見えるような造りにしたほうがいい」と設計変更を提案されたのです。ものすごく悩みました。花外楼としてもひとつの賭けのようなもの。私の決断がすべての人に迷惑をかけてしまうことにもなりかねません。考えた末、私は設計士さんを信頼することにしました。「レストランでもパン屋でもなく、アイルモレだ!」と。

藤本 それだけの思いがあってこそ、成功したのでしょうね。

徳光 コンセプトや宣伝もすべて自分たちの納得がいくものに。結婚式のエンディングには川で花火を上げたり…。パーティーや音楽会などさまざまな企画では、私たちがいいと思うこと、お客様が望まれること、私たちにできることは何でもやりました。おかげでさまざまなジャンルの方々、ユニークな方にもたくさん出会い、そのつながりの中でいろいろなことをやってきました。これらすべての経験がノウハウとネットワークとなって、私の宝物になっています。

藤本 お話をしながら、女将のお顔が輝いているのがわかります。

徳光 私はキタやミナミではなく、川があって緑がある大川のほとり、ここが好きなんです。朝昼夕、夜と風景が違う。雨や星、川があって緑がある。雨の日、雪の日もまた趣があります。5月にはバラが、初夏にはタイサンボクの花が咲き、11月にはユリカモメが飛んできます。ライトアップした中央公会堂を眺める特等席もあるんですよ。 

藤本 レストランならどなたでも気軽に利用できそうですね。女将の気さくな人柄がかつての伊助さんのように、新しい人々をどんどん引き寄せていくのでしょうね。花外楼もさまざまな事業展開とともに、新しい時代に向かっていきそうですね。

徳光 基本は「人の心」を大切に。豪華さや大きさではなく、あたたかいおもてなし。さりげなく、気持ちのいい空間を演出することでしょうか。これからの時代の生き方は、勝つことではなく、ホッとするようなものかもしれません。 

藤本 本誌のテーマ「自分らしく」も共通しています。

徳光 私自身、「継がなければならない」と気負っていたところもあるんです。これからは、勢い込まず自然体で、ゆっくりと私流でやっていきたいですね。

藤本 ところで今、学校では「食育」という新しい教育が始まりました。古くから大阪の食文化を支え、つくってきた花外楼の女将として、どう思われますか。

徳光 モノが豊かになった反面、心の貧しさが問題です。これまで日本の食卓にはマナー教育はあっても、誰とどう食べるかを考える姿勢はありませんでした。フランスでは「会食」をコゥヴィーヴ(con vive)といいますが、心を許す人を招いて食すということは「ともに生きる」という意味をも示します。またイスラエルには「今日あなたと食事をともにする」という言葉があり、ともに食事をすることは「和解」を意味します。それほど食事というものは万国共通、人が心を通わせる大切な場なのです。

藤本 だとしたら料亭も家庭も同じ。私たちは食について、もっと関心を持つべきでしょう。失われつつある日本人の食卓。これは、大きな問題です。徳光正子さんとの対談写真 その4

徳光 大阪は古くから食の街、文化の街。人々は、その合理的な気質の通り、豊かな山海の食材を隅まで余す所なく生かし、大阪の「食」を確立しました。街の発展とともに人やモノが集まり、食を囲む文化が栄えたのです。町人は晴れの日に、サクラの日に、特別な宴を設けました。そんな、いい習慣を伝えていけたらと思います。 

藤本 今一度、家族で囲む食卓について考えてみたいと思います。今日は、素晴らしいお話をたくさんありがとうございました。

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