スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

世界に届けたったひとつの三味線の音 津軽三味線奏者 吉田兄弟

茶髪に紋付袴の定番スタイルがすっかりおなじみの吉田兄弟。激しくたたきつけるような迫力のバチさばき、ジャズにも通じる即興性で、伝統芸能に新しい風を吹き込んだ功績は大きい。兄弟でありながら性格も三味線の音色も対称的な2人。いきいきしたその魅力に迫った。(2003年取材)

 

津軽三味線奏者 吉田兄弟
よしだ きょうだい  1977年生まれの兄・良一郎、79年生まれの弟・健一共に北海道登別市出身。共に5歳で民謡三味線を習い始めた2人。津軽三味線の若手登竜門といわれる全国大会で入賞し、弾き手としてスタート。ルックスのよさと茶髪に紋付袴という異色のスタイル、ダイナミックな演奏で一躍注目を浴びる。99年の初アルバム『いぶき』は8万枚、2000年『MOVE』は10万枚を売り上げ、爆発的な人気を集める。5月にニューアルバム『FRONTIER』をリリースしたばかり。現在、全国ツアー2003「LIVE FRONTIER」を展開中。

父がつくった思い出の風呂桶三味線

藤本 今、ブレイク中の吉田兄弟、テレビでは「茶髪に袴姿」というスタイルを拝見していますが、今日吉田兄弟との対談写真 その1のファッションは、ジーンズでカジュアル系ですね。いつもこんな感じですか?

良一郎 そうですね。普段はラフな格好が多いですよ。

藤本 早速ですが、三味線を習うきっかけは何だったのですか?

良一郎 父の影響が大きいんです。炭鉱に勤めていた父は、若いころ三味線弾きになりたくてがんばったんですが、家が貧しくて実現しなかった。その夢をぼくたちに託した。ぼくが5歳のときです。

藤本 そんなに小さくて、三味線を持てたのですか。

健一 初めて手にした三味線は、父のお手製でした。お風呂の桶を2つ合わせ、その間に木を通して棹にしたものです。 

藤本 世界にたったひとつしかない三味線ですね。

良一郎 見た目は三味線でも音は出ないから、5歳のぼくには「楽しそうなおもちゃ」でしかありません。いい思い出です。

藤本 その風呂桶三味線には、お父様の思いが込められているのでしょうね。そして、良一郎さんが三味線を習い始めて2年後に、弟の健一さんも始められたのですね。

健一 父と一緒に兄の稽古の送り迎えについていくうちに、ぼくも始めることになりました。ごく自然ななりゆきでしたね。

藤本 そのころ、三味線を習っている人なんていましたか。

健一 それは珍しかったですね。初めのうちは何とも思わなかったけど、8歳か9歳になって初めて、「ぼくだけ違う」と気がついた。友だちに「三味線なんてジジくさい」と言われて恥ずかしかったですね。

良一郎 ほとんどの人がピアノやエレクトーンを習っていたので、ぼくらは特別だった。何か「変人」みたいなね。

藤本 実は私も子どものころ、9年間も三味線を習っていたんですよ。

健一 ハハハ。「変人」はうそうそ。

良一郎 藤本さんも相当珍しいですね。

藤本 三味線なんて自慢どころか、ピアノを弾く子がかわいく見えて、うらやましかった…。

健一 背中に三味線を背負って自転車で稽古に行くんですが、ダサイから友だちに会わないようにわざと遠回りしたりして…。

藤本 それって、すごくよくわかります。でも、やめたいとは思いませんでしたか。

良一郎 父が厳しかったので、いやだとはいえませんでした。父は、三味線に関しては本気でしたからね。

どこまでも自由に表現する津軽三味線

藤本 その後、めきめきと腕を上げたお2人。本格的に三味線人生を歩もうと決めたのは、いつごろのことでしたか。吉田兄弟との対談写真 その

健一 小学生のころには地元で「三味線がうまい子がいる」と評判になっていたので、お祭りでも声がかかることが多かったですね。6年生になって最高の師匠・佐々木孝先生と出会い、本格的に津軽三味線の世界に入ったんです。

良一郎 本気になったのは、一生懸命な父のためにという気持ちもありました。当時の父はまるで「星一徹」。子ども心に「これは手を抜けない」と感じていました。父は「30歳までやってダメならやめてもいい」と言っていました。

藤本 津軽三味線は、普通の三味線と違うのですか?

健一 明らかに違います。民謡が弾けても、津軽三味線は弾けないというくらい技術的にも難しい。バチの持ち方も棹の使い方も全く違うし、津軽三味線には、同じ演奏、同じ音はまずありません。楽譜もないのですべてアドリブで演奏する。だから、奏者の個性がすごく出るし、アレンジができるので、曲づくりもとても楽しいのです。

良一郎 津軽三味線をかたちづける技術やフレーズはあるけど、そこに執着していたのでは、聴衆に認めてもらえない。むしろ、奏者の個性をどこまで表現できるかにかかっているんです。

藤本 演奏しているときは、何を考えているんですか。

健一 無というか、何も考えていません。

瞬間のひらめきと感覚がすべて

藤本 お2人の弾く三味線に違いはあるのですか。

健一 兄は「味」を追求するクラシカルな三味線。細かいフレーズにも気を使いますしね。反対にぼくのほうは、攻撃的でエネルギッシュな感じですね。演奏ではいつも突っ走ってます。

良一郎 ところが私生活は、また逆なんです。健一は、決まった物は決まった所に戻さないとダメという神経質。ぼくは、普段はアバウトでだらしない性格ですからね。

藤本 兄弟でもぜんぜん違う。それが三味線に如実に現れるなんて、面白いですね。ところで、プライベートな時間は何をしていますか。

健一 ぼくはドライブに行ったり、映画に行ったり。外に出かけることが多いですね。反対に、兄は暇さえあれば三味線を持っています。

良一郎 昔からぼくは三味線一筋。弟は、三味線を放したら全くフツーの23歳。

健一 そうそう。プライベートも性格も三味線の味も全く違う2人だけど、不思議と演奏はくずれない。三味線を持ったら自然にピッタリ合うから不思議ですね。瞬間のひらめきと感覚がすべてです。

藤本 それぞれの感性が激しくぶつかり合い、時にはひとつになる。その瞬間、そこに人々の感動があるのでしょう。兄弟ならではの特権かな? 2つ違いのお2人ですが、ライバル心はなかったですか。

良一郎 ぼくは、弟だけには絶対に負けられないって、プレッシャーが結構ありました。

藤本 兄貴としての面子もありますね。でも良一郎さんをお手本にしながら、健一さんも同じ道を歩き…。そういう意味では「良きライバル」ですね。

良一郎 兄弟だったからこそ、お互いに刺激し合い、成長できたのかも知れないな。

藤本 良一郎さんは高校を卒業して東京に出てこられましたね。

良一郎 浅草の民謡酒場に住み込みで雇ってもらいました。ずっと民謡をやってきたから、この味を大切にしていきたい。東京という地で民謡で成功したかったんです。ところがそこで、生まれて初めての挫折を味わうのです。

藤本 何があったんですか。吉田兄弟との対談写真 その3

良一郎 店には、いわゆる民謡通の客が多く、気の抜けた音など出したら、もう許さない。演奏するときは、上半身を動かさず、背筋を伸ばして弾くのが基本だといわれ、ぼくのように首を動かしたり、上半身を前のめりにしたりするのは絶対にダメだって。伝統的な民謡を継承する店で、正統派民謡を自負する人たちが黙っていなかったんですよね。

藤本 確かに、これまでの三味線であれば、体を動かして弾くなんて考えられませんでしたね。

良一郎 人生始まって以来の挫折です。津軽のルールは民謡では通用しないわけです。落ち込んでもうダメかと思っていたときに、ある和太鼓のCDと出会ったんです。林えいてつさんという方ですが、伝統的な和太鼓をドラム的に演奏する。それを聴いて「うわぁ、スゲェー」って感動したんです。自分のカラーを持っている。それからはもう、自分が楽しく、かっこよく弾くことだけを考えました。

藤本 伝統にとらわれず、自分の個性と感性を生かして弾く。津軽三味線の醍醐味ですね。私の場合も伝統的な長唄でしたから、家元とか大変でした。健一さんはそのころどんな活動をされていたのですか?

健一 ずっと兄弟でやってきたけど、兄が東京に行ってひとりになり、最初のころは無気力の自分がいましたね。でも「これじゃダメだ。とにかく自分から何かを発信していかないと」と、コンサートを企画したんです。手づくりのチラシをデザインして、ビラ配り、会場探しまで、ぜんぶ自分でやりましたよ。ほとんど赤字でしたが。(笑)

藤本 それは大変だったでしょ。

健一 何でも人に頼むのは簡単だけど、自分でやればどれだけ大変かを身をもって知れた。他人にお願いする価値を改めて知ったんです。本当に伝えたいものは何か。発信したいことが見えてきたんです。

藤本 プレイヤー自ら、プロデューサーもなさるなんて、ものすごく貴重な体験でしたね。

健一 おかげでそれからはもう、津軽三味線から解き放たれて、未知なる世界への挑戦に心ときめいていました。たとえば、モンゴルの馬頭琴、沖縄の三線などとセッションを試みたり。パーカッションとのセッションだったり…。

藤本 新しい音への挑戦ですね。

伝統を守りながら新しいものをつくり出す

健一 世界にあるさまざまな音楽とコラボレートし、一丁の三味線を使って、どこまで自分を表現でき吉田兄弟との対談写真 その4るか。

藤本 吉田兄弟の素晴らしさは、限りない可能性への挑戦だけでなく、多くの人々に津軽三味線の素晴らしさをも伝えていることですよね。そのエネルギッシュなアクションが人々を感動させるのでしょう。

良一郎 伝統を守りつつ、新しいものをつくっていきたい。そして発信していくのが、自分たちの使命。邦楽を次の世代に伝えていくことが必要だと思っています。

健一 中学のころ、ぼくは音楽の授業が好きじゃなかったですね。楽器を演奏したり、歌ったりすることは好きだったけど、ベートーヴェンだのモーツァルトだの。そんな理論を聞いても退屈でしょうがなかった。先生も、ぼくが三味線を弾くのを知っていたにもかかわらず、何もいわない。なんで、ピアノばっかりなの? おかしいよね。

藤本 知識偏重が先に立ち、音を楽しむ、楽器を楽しむという教育ではなかったのですね。

良一郎 だからこそぼくたちは、子どもたちにもっと邦楽の楽しさ、三味線の素晴らしさを伝えていきたいのです。

藤本 最近では学校でも邦楽を学ぶことになっていますから、吉田兄弟の存在がマスコミにクローズアップされたことで、かなりの効果があったでしょう。

良一郎 ぼくらが学校で演奏すると、生徒たちはみんな「かっこいい!」って。「感動した」「ぼくも三味線をやってみたい」っていう声がどんどんあがったんです。

藤本 すごいことですね。少し前まで「ダサイ」「かっこわるい」と言われていたのが、ここまでイメージを変えるなんて。

良一郎 ぼくらもやってて、ほんとに楽しいし、それはよい刺激になりますね。

健一 できれば、ほんとは各学校に三味線を置いてほしいんですよね。でも、問題は値段。一丁20万円くらいはしますから、ハードルが高いですよね。

藤本 でも、学校には何十台ものパソコンがあるでしょ。そう考えたら、あり得ないこともないですよ。

健一 それを期待して、オリジナル曲もどんどんつくっていきたいですね。昔、ぼくたちが難しいと感じたクラシックや民謡じゃなくて、もっと聴きやすいもの。今の若者や子どもたちになじみやすい曲をね。

目指すは、世界のグラミー賞

藤本 最後に、お2人のこれからの夢を教えてください。

健一 世界に通用するアーティストを目指したい。目指すは、グラミー賞ですね。

良一郎 8月には全米デビューが決まっています。世界じゅうに三味線という楽器を広めたい。その先には、三味線が日本の中でも、もっと身近な楽器になることを願っています。

健一 家元制度も関係なく、誰でも手軽に手に入れて、手軽に楽しめる楽器になってほしい。

藤本 何となく、我々庶民からすると遠い存在というか、手が届かない楽器になっています。

良一郎 それは全くの偏見で、本来は農作業の合間に奏でたという庶民の楽器です。やっている人が少ないからいつの間にか高尚なイメージになってしまったけど。

健一 それを打破するためにも、コンサートを精力的にやっていきます。昨年からは文部科学省とタイアップで、学校などでもいろんな企画をやっています。

藤本 学校にも来ていただけるんですか。吉田兄弟との対談写真 その5

良一郎 ええ、もちろん。ぜひ、声をかけていただきたいですね。

藤本 最後に、すごく贅沢なお願いですが、お2人の三味線をちょっとだけ聴かせていただけますか?

良一郎 いいですよ。

(と、2人は別室から三味線を持ってくる)

―――――演奏……。

弦楽器でありながら打楽器。バチをたたきつけ、弦をすくいとる。2丁の三味線の音色がぐりぐりからみ合い、初めて耳にする何ともいえない音をはじき出す。

藤本 思わず鳥肌が立ってしまいました。ジーンズ姿で三味線を弾く吉田兄弟、とにかくスゴイ! かっこよかったです。伝統の津軽三味線、民謡のイメージが今にもひっくり返りそう。今日は本当にありがとうございました。これからもご活躍ください。

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