スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

本気でやれば、できる ミキハウスグループ社長 木村皓一さん

激戦の子ども服市場で常にトップメーカーとしての地位を保ち、子どもたちに夢や目標を与えることを意義として、子育てに関わるすべてのビジネスを手がけるミキハウス・木村社長。いつまでも夢を描き続ける、その生き方や信念を伺った。

 

ミキハウスグループ社長 木村皓一さん
きむらこういち  1945年滋賀県生まれ。57歳。関西大学経済学部在学中から野村證券でアルバイトを始め、中退し同社入社。71年子ども服製造卸会社・三起産業を創業。78年三起商行を設立。大阪府八尾の小さな個人商店から、「ミキハウス」というブランド戦略で、子ども服のトップ企業へ。国内約200店鋪、海外11か国24店鋪を展開し、従業員1000人を抱えるミキハウスグループを一代で築き上げた。オリンピック選手を育成するスポーツ支援にも力を注ぎ、2000年にはITで子育て情報を提供する「ミキハウス子育て総研」を設立。

「商売」って難しいもんやなあ

藤本 突然ですが、見てくださいますか? 今年、20、18、17歳になる、娘たちの写真です。木村皓一さんとの対談写真 その1

木村 ほぉー!? このバックロゴのトレーナーは懐かしいなあ。

藤本 娘たちが小ちゃかったころは、私の母が、ミキハウス(の洋服)ばかりを買ってくれて。

木村 そうですか。それはうれしいなあ。

藤本 デザインがかわいいだけではなく、品がありました。モノが良いおかげで、3人共が着回して、それをまたご近所の方に差し上げたりしていました。ほら、これなんて親バカですけど、上から下まで「ミキハウス」。当時から、今と変わらぬ、圧倒的なブランド力でしたよね。

木村 モノはだいぶ変わっているかなあ。

藤本 アパレルという、流行に左右されやすい業界で、不動の地位を守り続けられているミキハウスさんですが、社長一代で、これだけの確かな信頼と実績をつくられたそうですね。創業のころのお話を伺わせていただけますか。

木村 私が長男坊で、家の跡取りだったというところから話は始まります。当時ぼくは、野村證券で働いていました。ところが、古い時代のことですから、幼少のころから「かまどの灰までおまえのものだ」と育てられてきて、「いつまでもよそで働いておらんで、そろそろ家に帰って来い」と、親父から声がかかったんです。

藤本 お家は何をなさっていたんですか。

木村 家業は婦人服縫製業。当時、会社は本町にあって、そこそこ大きな会社だったんです。ところが親父とは、ちょっとしたボタンのかけ違いがあってなかなかうまくいかなかった。それで、大きなケンカをする前に飛び出しました。

藤本 お父さまはなんておっしゃいました?

木村 「人生、慌てることはない。荷造りからやれ」と。

藤本 ご理解がありますね。

木村 何を言っても聞かないのもあったんでしょう。でも余計に「何かせなあかん」と思いましたね。親元を離れたのは、26歳のとき。ちょうど結婚したばかりで、女房には言えないし…。

藤本 どうなさったんですか。

木村 しばらくは内緒にしてましたね。朝は牛乳配達、昼間は、これから何をやっていったらいいかと、時間をかけてリサーチをしましたよ。

藤本 どういう結果が得られたのでしょう。

木村 親父と同じものはイヤだったので、「子ども服」に的を絞りました。調べてみて地方の方がどういうものを求めているのか。どうやったらもうかるのか、何となく見えてきたんです。

藤本 ミキハウスのスタートですね。

木村 ええ。でも最初は、それは厳しかった。女房がデザインしてつくった子ども服を風呂敷に包み、鹿児島に行きました。真っ先に飛び込んだのは、街で一番大きな商店街で一番高級品を売っている店です。門前払いを食いました。次は八代です。そこでも一番の店を訪ねると、やはり門前払いです。特急の止まる駅で順番に下車。佐賀、久留米を回って博多に着きました。「商売って難しいもんやなあ」と、つくづく思いましたね。

自分を鏡に映して見えたもの

藤本 なぜ、一番の店ばかりを。木村皓一さんとの対談写真 その4

木村 二番手の店に行く気はありませんでしたね。最初から一番を狙っていましたから。

藤本 すごい! 最初から妥協はしなかった。

木村 そうそう。商品には絶対の自信がありました。「しっかりリサーチして、売れるはずのもん持ってってんのに何で売れんのやろ?」。旅館で一睡もせずに考えました。「サンプルをきちんと見てもらえないのは、ぼくに原因があるんやないか」と気づいたんです。「でもなんでかなあ? トラッドでビシッと決めてたし。見かけは決して悪くないはず…」と。

藤本 生意気だった?

木村 まあ、そんなもんです。自分を鏡に映してみてやっとわかったんです。どう見ても、勝手口でゴムひもを売っている「押し売り」にしか見えなかった。「売らんかな」ではなくて、ぼくが何者かを知ってもらわなければダメだ。で、最高にいい笑顔をつくる練習をしましたね。

藤本 その結果は?

木村 あくる日は小倉に下りました。街一番の店の前で、こう、いい顔をつくって、意を決して飛び込みました。「大阪から来ました。私はこういう者ですが、このお店に何かお役に立つことはないですか?」って。そうしたらオーナーが「これとこれをこんな風にミックスできるか?」って。「そんなこと簡単にできますよ」と言うと「サンプルないんか?」。慌てて出すと「こんなのが欲しかった。みんな置いてけ」って。続けて「ここからここまではオレの商圏やからあかんで。海の向こうの下関のお客さん紹介したるから次は下関やで」って。たくさん注文をいただいて、サンプルは持たされました。

藤本 認めてくださったわけですね。

木村 ところが下関の店に着いても、勇気がなくてなかなか入れない。ほっぺをつねってやっと入ると、「よく来たよく来た。はよサンプル見せてくれ」。私にコーヒーを入れてくれて、その間に注文書を書き始めた。「どないなってんのやろ?」と、もうびっくりです。

藤本 すごい展開ですね。

木村 で、小倉と同じように「この近圏では売ったらあかん」って、今度は宇部の店を紹介されました。宇部に行くといきなり「お腹すいたやろ。晩ごはんでも食べよか」って。小倉のオーナーが、電話を入れてくれていたんですね。

藤本 人生、どこでどうなるかわかりませんね。

木村 それはもう、本当にうれしかった。人と人とのつながりというものがどれほど大切かと、そのとき実感しました。世の中すべて、人との出会いが基本だと思いますね。

藤本 商品の素晴らしさもありますよ。

木村 それは女房にも感謝しています。最初はもう、食べていくだけでいっぱいでした。ただ、そのころから品質に対しては妥協はしない。何といっても信用第一ですから。女房と一枚一枚検品して、寝ないでボタン付けをやり直したり。

歩けるというだけで幸せだった

藤本 そのご苦労が実を結んだのですね?木村皓一さんとの対談写真 その3

木村 まあぼくの場合、幸い苦労を苦労と思わない。実は、3歳のときに高熱を出しまして、小児マヒをわずらいました。それまで元気だったのに、急に動けなくなったのですからたまりません。思うようにならないことを親に当たったりして、それはもう、劣等感のかたまりでした。ところが小学校4年生のときのことです。学校の送り迎えを手伝ってくれていた女の子に、密かに恋をしたんですね。しかし、彼女にはほかに好きな人がいた。彼を見る、目の色が違うことに気がついたんです。誰もが納得のできる野球の花形選手でした。

藤本 ショックでしたね。

木村 いってみれば、それがぼくの原点です。彼はそうなるために相当な努力をしている。それに比べて自分はどうだ。体育は見学、そうじもせん、リハビリもせんで、「産まんときゃよかったのに」と親を恨むばかり。「なんて情けない人間や」と反省しました。彼以上の努力をしなければと強く思いました。5年であいつに追いついて、6年で追い越してやろう。ライバルになって、あいつの前に仁王立ちしてやろう。「わしほんまにやるで!」と誓ったわけです。

藤本 計画通りにいきましたか?

木村 電気治療に加えて、「走れるようになるために新聞配達をする」と言うと、医者は猛反対。「何言うてんねん。そんなことをしたら腰を悪くしてしまうから絶対にしたらいかん」と。

藤本 ご両親は。

木村 負けず嫌いを知っていましたから「あの子は言うことをきかん」って。親父は新聞配達所に行って「誰よりも早く行かせます。とにかくご迷惑はかけませんから」とアルバイトをさせてくれるように頼み込んでくれました。さあ、翌日からは真剣勝負です。壁伝いに足をひきずるほどですから、階段なんて全く上れない。最初は迷惑もかけました。時間がかかるので「新聞が来ない」とクレームが続出。

藤本 どう克服なさったんですか。

木村 身体が使えない分、頭を使った。言われた通りにやっていたらダメだ。どうしたらいいかを考えて、配達のルートを洗い直すと、倍のスピードで配ることができました。しかも、あれだけ動かなかった足が、半年も経つとまあまあ歩けるようになり、1年後には皆に負けないくらいになりました。成長期というタイミングもよかったんでしょう。みるみる筋肉が付いてきて、走れるようにもなったのです。

藤本 よっぽど強い意志をお持ちなんですね。誰にでもできることではありませんよ。

木村 ぼくは、しぶとかったからね。結果的に、強い意志を持ってすれば何事も叶えられるという大きな自信につながりました。人生、やってみなければわからない。やる前から諦めていては何も叶わない。身ひとつで家を飛び出したことも、少年時代のこの経験あってのものです。 

藤本 ハンディを克服されて、青春時代は見違えるような生活を送られたのでしょうね。

木村 マイナスからのスタートだったんで、みんなに追いついたことだけで本望。同じように運動ができるようになった幸せを実感していましたね。まあ、中学校時代は朝刊、夕刊配りに終わっていましたから、高校時代はもう大変だった。自分で動ける、何でもできるっていうんで、とにかく何にでも挑戦した。9年間の願望が3年間に凝縮されたようなもんです。人が集まる所にどんどん出て行って、人と接する楽しみ、スポーツをする楽しみを満喫しました。

子どもたちの夢を応援したい

藤本 スポーツ愛好家でいらっしゃるとか。

木村 ええ。いまだに野球にゴルフにスキー…。スポーツは楽しいですよ。とくに、会社の人間関係づくりには持ってこいだ。

藤本 たくさんのスポーツ選手を育てていらっしゃるんですよね。

木村 会社には、今、約100人の選手がいるかなあ。ぼくは、会社の宣伝とは考えていないからね。みんなは仲間を一生懸命応援するし、共通の話題を持つ。いい選手を社員が誇りにする。ものすごいプラスでしょ。それでいい。

藤本 卓球の愛ちゃん(福原愛)とか、柔道の野村忠宏選手…。オリンピックにもたくさん出場されていますよね。

木村 メジャーなスポーツではなく、マイナーなスポーツをやっている人にチャンスを与えたい。基本は「子どもたちに夢を持ってもらいたい」という思いです。ミキハウスは利益を追及する企業ではなく、社会貢献に力を入れています。子どもたちの健やかな育成は、一番の目的といえるでしょう。八尾市東山本でやっている「柔道教室」もそのひとつ。子どもたちには厳しく指導していますので、柔道を通して、礼儀正しく、社会性を身につけた子どもたちが元気に育っています。野村選手がオリンピックで金メダルを獲得したことで、子どもたちはますます夢をふくらませています。

藤本 スポーツ選手は、子どもたちの憧れです。

木村 子ども服を扱う企業ですから、子どもに喜びと夢を与える場を提供していかなければなりません。木村皓一さんとの対談写真 その3

藤本 この『ビーボラビータ』も「夢」がキーワード。「ビーボラビータ」は自分らしく生きるという意味ですが、子育てに関わる人々が夢を描いて生きていくことこそが、いい子育てに通じる。だから私も「子育ては大変と嘆く前に夢を描こうよ」と母親たちに言っているんです。

木村 そりゃあそうだ。誰だって、夢に向かってがんばることが大切です。

藤本 自転車で世界一周をした坂本達さん(※)は有名ですね。

※坂本達さん/1968年生まれ。33歳。4年3か月の有給休暇を社長に直訴し、自転車で世界一周の夢を実現。各地で写真展や講演活動を展開。自身で書いた体験記『やった。』は、三起商行から好評発売中。

木村 彼はたまたま人事部だったからぼくの近くにいて、始終「行きたい行きたい」と言っていた。まあ黙って見ていたら、3年間かけて、30社のスポンサーを集めて来た。「ぼくはこうこうしたいので応援してください」と各企業を回って、自転車のメーカーさんなんかも話に乗ってくれている。あとは社長がOKをくれればいいだけだというから仕方ない。それでぼくも大使館やらで世界の治安なんかをいろいろ調べ、こう言った。「5年間の有給休暇で行ってこい。でも絶対に無理はするな。こことここは危険だから、そこは行ってはダメだぞ」と。

藤本 世間の一般常識では「それなら会社を辞めてくれ」となりますよね。

木村 それは全く考えなかった。ただ、スポンサーに期待されてしまったら、どんな危険を冒すかも知れない。経済的な裏づけなくしてはとてもできないでしょう。彼のご家族のこともあります。何かあったらどんなに恨まれてしまうか。ひとり出すって結構大変なんですよ。

藤本 目に見えないご苦労があるんですね。

木村 他人は「有給なんか、よく出しましたね」なんて気楽に言いますが、「無事に帰ってくれ」と心から願っていましたよ。

藤本 それでも夢を応援する。

木村 夢を持っている人間はパワーが違います。大変な経験や苦労が人をつくるから、すごい奴になって帰ってきます。だから、子どもにも夢を持たせてあげなければいけない。

藤本 今は、夢を持たない子どもが多いですね。

木村 学校や家庭。教育は「環境」がすべてといってもいいでしょう。環境が悪くては始まらない。フランス、イギリス、カナダ…、海外では夫婦で出張は当たり前です。国の子育て制度が違います。日本も道路や施設にお金をかけるなら、結婚したら5LDKの家に住ませるとか、ベビーシッター制度を充実させるとかをしないとダメだ。大人たちは、子どもの成長を楽しみながらビジョンを持って生きていかないと。

親の姿を見て子どもは育つ

藤本 母親たちはどうでしょう。

木村 うちは社員の9割が女性だからね。

藤本 そんなにいらっしゃるんですか!?

木村 子ども服ということもありますが、これからはお母さんたちがどんどん社会に参加しなきゃ。出産、育児という経験はものすごい大事なんですよ。

藤本 出産しても働けるんですか。

木村 もちろんリターンシステムはあります。フルで働かなかなくても、週に2回とか、1時間2時間でも働く方法はあります。

藤本 うらやましいですね。

木村 わが家も夫婦で働いていましたけど「子どもにちゃんと、えー背中見せなあかん」と意識していましたね。エネルギッシュに生きている親の姿を見て子どもは育っていきます。

藤本 自分の生き方を、考えていない大人が多いのが気になりますが…。

木村 学校の先生も同じで、狭い家に住んであくせくしていてはいい教育なんてできっこない。自分の人生を考えるゆとりもないでしょう。和歌山県橋本市の山あいにある「きのくに」という小さな学校をご存じでしょうか。

藤本 ええ。何かで読んだことがあります。「自然の中にある自由な学校」でしたっけ?

木村 1990年。堀真一郎さんという方がぼくの所にやって来て、「既存の学校とは違う自由な学校をつくりたい」と熱く語ったんだ。ひとことでいえば「教師のいない学校」。「きのくに」にいるのは、一緒に問題を見つけ、それを一緒に考えていく「仲間」。プログラムはすべて実践型体験学習。平均的教育ではなくて、子どもの個性を伸ばそうという教育方針だった。賛同したぼくは、経済面での最大限の支援と、ミキハウスの社員を「きのくに」に派遣することを約束しました。今は200名の子どもたちが山の中で元気に学んでいます。本当にのびのびとした、子どもらしい子ども。みんな「右向け右」は聞かんけど、6年生でもしっかりとした人生のビジョンを持っていますよ。

藤本 ミキハウスが支援していらっしゃるなんて、存じ上げませんでした。素晴らしいですね。

木村 たまたま、堀さんとぼくの夢に共通項があった。だから応援できた。これからも、こういう支援を含め、たくさんの子どもたちの夢を叶えられるように、子どもをとりまく環境のすべてをプロデュースしていくのが企業としての夢。基本は、子どものために何ができるかです。

藤本 個人の夢は何ですか。

木村 ずーっと現役で野球を続けたい。

藤本 ノンプロの域と伺っておりますが。木村皓一さんとの対談写真 その5

木村 ハハハ。昨年のロータリークラブの野球大会では、監督と選手を務めて優勝させてもらったんだよ。これはもう生きがいだ。優勝したからには連覇もしたいし、そのためには身体も鍛えにゃいかんし。子どもと変わらないね。

藤本 素敵です。今年もがんばって勝ってくださいね。おにぎりを持って応援に行きますよ。

木村 ハハハ。ホームランを狙わなくちゃね。

藤本 今日はありがとうございました。

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