スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

子育ては自分育て今を大切に自分を生きよう クレヨンハウス主宰 落合恵子さん

女性や子ども、教育や環境など社会的な問題を小説という形で表現。また、子どもの本の専門店クレヨンハウスを主宰。ペンの力にも優る行動力で、文化を明るく拓くことに貢献する落合恵子さん流「すぐに活かせる生き方のヒント」がここに。

 

クレヨンハウス主宰 落合恵子さん
おちあい けいこ  1945年栃木県出身。明治大学文学部英米文学科を卒業後、文化放送を経て文筆業に。子ども、女性、その他構造的に「声の小さい側」に置かれがちな「声」を中心に、小説、エッセイ、翻訳などの幅広い分野で精力的な執筆活動を続けている。子どもの本の専門店クレヨンハウス、女性の本の専門店ミズ・クレヨンハウスを東京青山、大阪江坂に主宰。育児と育自をテーマにした雑誌『月刊クーヨン』『月刊子ども論』発行人。

http://www.crayonhouse.co.jp

大人はもうひとつの環境問題

藤本 今、社会には子どもをめぐるさまざまな問題が起きています。いじめ、不登校、学級崩壊、密室落合恵子さんとの対談写真 その1育児、幼児虐待…。どうして、このような社会になってきたとお考えでしょうか。

落合 一言で原因を言ってしまうのは、むしろこわいことですね。ただひとつ言えるのは、子どもから見れば、すべての大人はもうひとつの環境問題だということです。どういう大人がそばにいるか。大人がどんな生き方をしているのか。それは家庭で地域で学校で、そして政治の場面でもそう。現代の子どもを語る前に、現代の大人である自分、あるいは自分たちがつくってしまった社会構造そのものに、問いかけをしなければいけません。

藤本 子どもの問題より、我々大人たちの問題として考える必要があるということですね。

落合 はい。たとえば、子育て=お母さん。このイコールで結ぶ関係から問いかけていく必要もあります。なぜ子育ては、いつも女性の「仕事」とされているのか。父である男性はどうなのか、とか。「お母さん」と言ってしまうとき、そこに居るはずの、ひとりの母であり、ひとりの女性である個人名は消されがちですね。フルネームの彼女でいいじゃないですか。「お母さん」って言ってしまうことで、子育てはお母さんの仕事。つまり、子どもが何か問題を起こすと「母親が悪い」「母親が外に働きに出ていた」というバッシングが待っている。母、一方の性にしか問われない子育てって一体何なんだろうと、社会のそこの構造を変えたいですね。

藤本 社会の中で「母親」という概念が、つくられているのでしょうか。

落合 女性たちがそれをずっと問いかけてきましたね。概念がつくられているのは、「父」も同じでしょう。全く逆方向で、お父さんは育児に遠い人、たまにいる人みたいな。「お母さん」という概念は「お父さん」というつくられた概念とワンセットになってるでしょ。

藤本 確かにそうですね。つい自分だけが大変と思ってしまいますが、落合さんが言われるようにどんな人にも共通して言えることですね。

落合 もちろん、育児は大いなる喜びでもあるけれど、並行して母親たちも「子育ては大変です」と声を上げていかないと、社会は変わっていかないよね。いつまで経っても、子育ては女の仕事であり続ける。

藤本 男性の育児参加が叫ばれていますが、まだまだ十分とは言えませんね。

落合 今は国レベルで、男女共同参画社会がテーマになっています。私は長いこと「男性も地域社会に帰っておいで! 暮らしを楽しもうよ」とメッセージしてきましたけど。せっかくふたりの間に生まれてくる子どもの成長です。その成長の中にはつまずきや、うまくいかない
こともあるけれど、喜びも数えきれないほど。この成長の節々にお父さんだって、ひとりの人間として関わっていかなきゃとっても損だよって、気がするんですね。

藤本 この『ビーボラビータ』の中では、みんなが自分らしく生きていこうと提案していますが、母親たちが一歩踏み出そうとすると、いろんな制約があって、なかなか思い通りにはいきません。「自分に正直に生きようとすればするほどそれを引き止め、元の所につなぎ止めておこうとする鎖が、外側(社会)にも内側(個人の内部)にもある。それらからいかに自由になっていくかがテーマ」と、落合さんもご著書の中で言われていますよね。女性たちが、さまざまなハードルを越えてアクションするには、どうしたらいいのでしょう

落合 始める前は、とても困難に思えるでしょうが、内なる制約は自分でクリアしないと。そのとき、その人がどれだけ動きやすい環境を、周囲も協力してつくってあげられるか。まずは「このままでいいの?」と自らに問いかけ、変わろうとする自分がいないと。周囲が先には動けない。人の人生に関われるのは、その程度のことですよ。あるいは、それで十分と言えるでしょう。子どもの人生だって同じ。親も子どもの心を思い通りにはできませんから。

藤本 落合さんの最近のご著書に「あなたの肩の荷を少しだけおろすお手伝いができたら…」と書いてありましたが、すてきなメッセージですね。子どもや母親だけでなく、どんな人にも心に響く言葉だと思います。

落合 できるだけ大人たちが、子育てじゃなくて、子育ちができる社会、子ども自身が育つことのできる社会をつくっていかないと。親が子どもを育ててあげるという意識も、ちょっと違う。人に対しても、こうしたいとか、こうあらねばならないと押しつけるのは、問題でしょう。ただ、みんなが自分らしく生きたいって思うのは当然で、互いに互いの「個」を育てることを認め合いたいですね。

藤本 どうやって自分を育てていいかわからない、という母親たちの声が聞こえます。

落合 今、社会の問題として子どもへの「虐待」があります。必ずその場合、加害性を持ったのは母という女性だと。母性の欠如だとか、周りは大騒ぎをする。密室的あるいはカプセル的環境の中で子どもとしか向かい合わず、自分自身の中にたくさんの芽を持っていながら、その芽に水をあげたり日を当てることもなかなか難しくて、追い詰められていく女性たち。でも子どもはいくらそうされても絶対に母親にすがるわけだから。「虐待」は許されないことですが、そこまで追い詰められてしまう、その背景も見ていかないといけません。

藤本 「虐待」の文字が活字にならない日はありませんよね。

「何になる」より「どう生きる」か

落合 私はいつも、育児と育自、この2つをテーマに『月刊クーヨン』という雑誌を発行しています。ひ落合恵子さんとの対談写真 その4とつは子どもを育てる育児、それともうひとつは、育てる自分と書く育自。母親であれ父親であれ、教師であれ、子どもと向かい合うことを積極的に選んだ大人は、育てる自分と書く「育自」を決して忘れちゃいけない。そして子どもに向かって「どんな大人になりたいの?」と私たちは聞くけれど、大人も自分に向かって、さらに「どんな大人になりたいの?」と問い続けたいですね。

藤本 年をとると、「もう先がない」とあきらめてしまいがちですが、いくつになっても大切なことですね。

落合 それから日本の教育の場合、「何になる」ということがひとつのゴールだったんだと思うけど、「何になる」より「どう生きる」か。今は企業がどんどん倒産していっている現状。そういう中で、私たちにとって大事なものは組織の肩書きではなくて、ひとりの人間としてどう生きていくかでしょう。大人として子どもとどう向き合っていくか。そして子どもと向き合うことで、子どもから贈られたものを、子どもにどう返していくかが大切なんだろうな。大人が、それぞれの「ただの私」として、子どもと向き合ったときに、子どもはアイデアや贈り物をいっぱいくれるというのが、26年間、クレヨンハウスをやってきた私の実感です。

「私らしさ」は私を縛る鎖

藤本 クレヨンハウスをはじめとして、もともと落合さんが、「子ども」という世界で活動をなさったきっかけは何ですか?

落合 女性や子ども、その他、社会構造的に声の小さい側に置かれた人と共にありたい。日本の社会ではとくにそうでしょうが、女子と小人を第二級の市民としてきたわけですよね。たとえば学校に何かものを言うときに、悲しいことですが、お母さんという女性がクレームをつけるより、お父さんという男性がクレームをつけたほうが話が通りやすい、っていうのはもう何十年と続いてきました。社会の決定権の多くは男性たちにあって、声の小さな立場の意見はなかなか表に出てきません。つまり、バリアのない社会。それは母親や父親だけでなく、母にならなかった女性も、母になれなかった女性も、あるいは父にならなかった男性も、父になれなかった男性も。そして、我々の人口の何%かは「性同一性障害」(※1)であったり、ゲイやレズビアンの人たちであるという事実。そういった立場を越えた、人としての存在。私は、それを大切にすることが本当の教育であり、文化だと思っています。それぞれの人たちがまさに自分を生きていく。それを社会に伝えたいと思ってきたのです。

※1 性同一性障害/性別に関する自我同一性(アイデンティティ)に何らかの障害があること。身体的な性別と精神的な性別の自覚が一致せず、現在置かれた性別とそれに伴う社会的な性役割に強い違和感を抱く症候。

藤本 差別や偏見のない社会で、気持ちよく生きていけたらいいですよね。

落合 私は最近、「自分らしく」の「らしく」はいらないと思っているんです。「自分らしさ」という言葉は「ジェンダー」、女は女らしくとか男は男らしくっていうのを超えたいと思った人たちが、その代わりに、この「自分らしさ」という言葉を使っていたんだけど、もう、「自分『を』生きる」でいいでしょ。たとえば私は「元気じゃなければいけない」、私らしい私は、どんなつらいことがあっても胸を張って生きている…。でもそう思うことが自分を否定してしまう場合もないとは言えない。自分の中にはいくつになってもまだ眠っている可能性があるんです。まだ閉まっている窓があるとしたなら、それも開けてあげたほうが自分に親切でしょ。そのときに「自分らしさ」とはこういうものって規定してしまうと、開かない窓は開かないままに一生が過ぎてしまう。「自分らしさ」という鎖から、もうそろそろ私たちは解き放たれていい。私は、ここ10年くらいはずっとそう言ってきました。次の社会の、あるいは文化のステージとしては「自分らしさ」という言葉を、そろそろ卒業してもいいんじゃないかなって。

ジャーナリストの視点を持って

藤本 この『ビーボラビータ』は、「みんなで発信する情報誌」です。発信することで、少しずつですが、考えたり、行動したりと、みんなが意識を持ち始めています。落合さんの考える「ジャーナリズム」とは何でしょう?

落合 今あるすべてのモノやコトに対して、一回立ち止まって「ほんとにそう?」と問い返すことがほんとのジャーナリズムだと思うんですよ。誰かがそういっているからそうではなくて、「ほんとにそう?」と問いかけることがジャーナリズムの基本だとするならば、教育の現場に入って行って、自分というジャーナリストの視点で問いかける。それがさっき言った、まだ閉まっている窓が開くきっかけになるかも知れませんね。社会にある窓も開くかも知れないし、自分の中にある閉まっている窓も開くかも知れない。そしてそれは、そのまま、子育て、子育ちにもつながるんでしょうね。

藤本 子どもの将来を考えると、自然と意識も上がってきます。

落合 でも、そのとき気をつけなければいけないのは、子どもとはこういうもの、こうあらねばならぬもの。5歳だったらこの程度の成長の基準がありますとか、そういう形で子どもを見ることはできないよね。よく「子どもに人気のある絵本、よい絵本を教えてください」っていう質問がくるけど、「一人ひとり子どもによって違います」って言うしかない。子どもを年齢とか性別とか国籍とか、その他もろもろの条件で規定するのはおかしいということは、大人である自分をも規定しちゃいけないということですよね。だから、両方が育っていかなければならない。

藤本 その点は、大人たちがもっと意識を持って生活していかないといけませんね。落合恵子さんとの対談写真 その2

落合 だからこそお母さんと呼ばれる女性も、ひとりの人間としていろんなことに意識を持ってほしいと思います。そして、外に出ること。どこでもいいんですよ。それからもうひとつは「このままでいいの?」と考えることが大切。「私」というジャーナリズムの目を持つこと。たとえば、環境問題でも、絵本でも、学校の問題でも、地域社会の問題でもいいと思います。そしてひとつ疑問、ジャーナリズムの目を持ったら、やっぱり一歩外へ出ること。一歩が無理だったら半歩でもいい。そうすることで自分と同じように「ちょっと待てよ」と思っている人と出会うことができる。クレヨンハウスのコンセプトのひとつは、本を仲介して大人と子どもが出会うこと。あるいは、大人と大人、子どもと子どもが出会ってもいい。外に出ることによって、もしその人がそう願ったらいつかは道が見えて来ます。20年前には5本しかなかった道が、今は幸い30本の道があります。でも、自分でそこに出かけて行かなければ出会えません。自分の前に壁をつくってしまってはダメ。

藤本 壁の向こうに行けると、思うことですね。

落合 それも自分で決めて行かなければダメよ。背中を押すのはほかの誰でもなく、自分の人さし指なんだという感覚でなければ。でも、「何かつかまなきゃ」「何か始めなきゃ」と焦ってばかりいても、うまくいかない。人生ってそういうものじゃない。どんなに熱い想いを持っていても、うまくいかないときもある。そんなときは、ちょっと休み時間。ゆっくりお休みをとって、またもう一回立ち上がればいい。その両方を持っていたほうがいいんだと思います。

藤本 いろいろなご経験をされてきた落合さんならではのお言葉ですね。それでは、落合さんのこれからの夢について教えてください。

いつも「今」だけを見てきた

落合 個人が、年齢とか性別とか、国籍とか身体的な状況とか、精神的な状況とか、そういった、いわゆる条件で等級づけされない社会や人間関係に向けて、どれだけ踏ん張れるか。それだけです。

藤本 それから、落合さんのその強さ、正義感は、一体何かなって思うんですが。

落合 ううん。強くないですよ。ひとりのときはもうくたくたになっちゃって。ただ、世の中あまりに理不尽なことが多過ぎるという、怒りだけです。私は怒りがなくなったらもう生きてる意味がなくなるかも知れない。でもね、人間ってそんなに強くないよ。それに「いつも元気だなあ」って言われている人だって、人前に出る直前に「元気な私」をつくっているかも知れない。それは不自然なことかも知れないけど、ただ、世の中のがんばっている女性が疲れた顔してると、「ほら見ろ。女って外に出たらあんなになるんだよ」って言われたらちょっとシャクだし。それからスカートの裾を踏まれたくはないし、ガラスの天井に頭をぶつけたくはないし。私はやっぱりこれまで通り、「おんな子ども」側、つまりかっこ付きでいわれるそちら側からの景色を広めていきたいと思いますね。

藤本 とても大切なことですよね。それから、子育てを一段落し、「この先どう生きていこう?」と不安を抱く40代、50代の女性たちに向けて、何かヒントをいただけたら。

落合 私の場合はいつも「今」しか見てこなかった。確かなものって今しかないじゃない? 今を一滴も逃さずにちゃんと体験していく。それが過ぎ去ったときに失敗も含めて、「過去は一生懸命だったよ」となる。で、その今の積み重ねが次の年代になっていくとしか、私は思えない。ガブリエラ・ミストラル(※2)というチリのノーベル文学者の言葉だけど、「子どもは今を生きている。子どもには今しかない。たとえば、飢えて待つ子に、明日まで待てと言うのは間違いだ」って。「子どもには今、血や肉が付けられている」という詩があるんだけど、子どもは本当に、今を生きているんだと思いますよ。たとえば学校生活の中でも「10年後は楽になるから今はがんばりなさい」と言うけど、「10年後のために、今を犠牲にするのかい?」。「どんなにいじめられても学校に通いなさい」って、それじゃあ、「1年後の卒業式のために、今死ねというのかい?」って。大人だって「今」を生きているのよね。

※2 ガブリエラ・ミストラル/(1889〜1957)チリの女流詩人。1945年にラテンアメリカ初のノーベル文学賞を受賞。女性の生きる悲しみ、子どもへの愛を大らかに歌い上げる。「ラテンアメリカの母」「愛の詩人」と称される。

藤本 今の教育について、一言お願いします。

落合 教育に関わる大人たちが、ひとりの大人としてどう生きているか、が大事ですよね。全体を見れば、素晴らしい先生もいっぱいいます。先生というひとつの職業として完璧に生き、またそれを超えてひとりの大人として子どもと必死で向き合っている教師たち。一方ではイヤな事件がどんどん報道されますが、本当に頭が下がるほど素晴らしい教師もたくさんいます。ただし、そういう教師たちは今の大きな社会の流れの中で、必ずしも主流ではない。ここが問題です。

藤本 そこを変えていく方法はありますか。落合恵子さんとの対談写真 その5

落合 やっぱり、父母が応援するってことでしょうね。少数派かも知れないけど、学校というひとつのフィールドの中で、本当に子どもと共に生きようとしている教師たち。そういう教師に対して、学校の外側からどれだけ応援することができるか。父母も個人のジャーナリストとして学校の中に入って行って、エールを送る。ほんの少しでもサポートする。そんな気持ちが大切だと思いますよ。

藤本 親としてどれだけのことができるのか。真剣に考え、努めていく必要がありますね。今日は、本当にどうもありがとうございました。

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