スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

人生の喜びや悲しみを歌にして  歌手 渡辺真知子さん

「迷い道」「かもめが翔んだ日」などのヒット曲を次々に生み出し、トップスターに上りつめた渡辺真知子さん。その後もジャズやラテンなどジャンルを超えた音楽に挑戦し、歌い続けて32年。昨年、作詞・作曲した作品をリリースし、決意新たに音楽活動に励む。デビュー当時から今に至る、心の葛藤。そして、原点回帰を印象づけるアルバムのことなどを語った。

 

歌手 渡辺 真知子
わたなべ まちこ●1956年横須賀市生まれ。「迷い道」「かもめが翔んだ日」「唇よ、熱く君を語れ」など日本のポップス・シーンに残る数々のヒット曲を生み、印象的な歌詞と心に残るメロディー、深いエモーションをたたえた抜群の歌唱力で一躍人気アーティストに。2007年「鴎30〜海からのメッセージ〜」、「かもめが翔んだ日(スタジアム・バージョン)」を発売。2008年「いろいろな白」リリース。「かもめが翔んだ日」が京浜急行堀ノ内駅「駅メロディー」に選曲される。今年2月発売の「歌鬼(がき)2」では、「もしもピアノが弾けたなら」を歌唱、新たな一面を見せている。

http://www.ozawamusic.co.jp/a_watanabe/new.php

http://machiko-watanabe.cocolog-nifty.com/

スケジュールを
こなすことで精一杯でした

藤本 今年、デビュー32年を迎えられたそうですね。当時私も、テレビの歌番組を見て歌わせていた渡辺真知子さんとの対談写真 その1だいていましたが、渡辺真知子さんといえば、パワフルな歌声が魅力。「迷い道くねくね」というフレーズはインパクトがありましたが、ご自身でつくられた曲なんですよね。

渡辺 ヤマハポピュラーソングコンテストで、特別賞をいただいたのが1975年。その後デビューして、77年の11月には、作詞・作曲した「迷い道」がいきなりの大ヒット。私自身もびっくりでした。

藤本 「かもめが翔んだ日」「ブルー」「唇よ、熱く君を語れ」と立て続けに大ヒット。どれも日本のポップスシーンに残る名曲ばかりですね。

渡辺 「ニューミュージック」全盛の時代。シンガーソングライターはテレビに出ないという音楽業界の常識を覆し、さまざまな番組や仕事をさせていただきました。

藤本 寝る間もなかったんじゃないですか。

渡辺 日本レコード大賞の新人賞やシルバーカナリー賞をいただき、ただ好きで歌っていただけの私が、突然華やかな歌謡界に担ぎ出されたような感じでした。正直、もう自分でも何が何だかわからなかったですね。

藤本 そんな中で、心境の変化が訪れたそうですね。

渡辺 デビューは21歳。「唇よ、熱く君を語れ」のヒットの山が過ぎて、25歳になった頃、久しぶりに女友だちに会ったんです。そしたら皆、結婚したり、OLとしてバリバリ働いていたりで、すごく大人になっていたんです。私はといえば、スケジュールを消化するのが精一杯で、需要と供給のバランスを崩し、エネルギーを出し尽くしていました。

藤本 頂点をきわめ、しかし一方で起こる先行きの不安や疑問…。でも、そのことに気づいた意味は大きいのでしょうね。

原点を気づかせてくれたアリゾナ

渡辺 そのあとバンドブームが起こり、女性ボーカリストとして新たな展開を求められたこともありまして。30歳のときに、アリゾナに渡米したのです。

藤本 きっかけがあったのですか。

渡辺 ちょうどその年、JRナイスミディパスのイメージソング「哀愁トラベラー」を発売したこともあって、当時のマネージャーと2人、四国お寺巡りの旅に出かけたんです。そして行く所、行く所で引いたおみくじが、なんと、2人して「凶」。しかも旅から戻った翌年の初詣で、それぞれ違う神社で引いたおみくじが、これまた「凶」。8回も「凶」が続いたらもうこれは、何か切り換え時なんじゃないかって思ったんです。

藤本 別の意味でスゴイこと。まさに人生の転機を予感させるような…。

渡辺 若くして頂点、自分のイメージ以上のものを得てしまうというのは、恐ろしいことでもありました。3年先までスケジュールが埋まっていて、オフのない生活を強いられていましたから、急にできた空白の時間をどう埋めようかと…。

藤本 アリゾナにはお一人で?

渡辺 ええ。自分を見つめる旅でもありました。でも、さあ行こうと思い立ったはいいけれど、自分一人では何もできない。チケットをどうやって買うかもわからないんです。

藤本 ご苦労もあったでしょうね。英語は大丈夫でしたか。

渡辺 いいえ。それで、早く英語を覚えようと、学校へ通ったんです。何か月か過ぎたある日、パーティーがあって、仕事を尋ねられたんです。「シンガー」と答えると、「何か歌って!」ということになりまして…。

藤本 それも、ただの歌手ではありません。渡辺真知子さんとの対談写真 その2

渡辺 それまで誰にも話していませんでしたが、アルバムを何枚も出していると話すと、みんなものすごく驚いて。それで「ウィ・アー・ザ・ワールド」(We Are The World)を弾き語りで歌ったんです。するとすかさず、「ジャパニーズソング、オリジナルソングはないのか?」って。

藤本 わかるような気がします。それで、何を歌ったのですか。

渡辺 「かもめが翔んだ日」を歌うと、もうみんな立ち上がって「エクセレント!」「ビューティフル!」と大歓声が起こりました。

藤本 考えたら当たり前の話ですね。

渡辺 あまりの喝采に初めて気づいたんです。「あぁ、私は一体何をしていたんだろう。日本の言葉で、自分の中から生まれ育てた曲を、なぜ最初から歌わなかったんだろう」って。

藤本 音楽は万国共通だと思いますが、きっとその歌が、真知子さん自身だったのでしょうね。

渡辺 その瞬間ひらめきがあり、「やっぱり私には歌しかない! もうこれで(アリゾナは)いいや!」と、半年で日本へ戻りました。帰国後は、全国のライブを回り、ジャンルを超えてさまざまな音楽に触れました。そのとき出会ったのが、ピアニストの島健さんをはじめ音楽界の先輩たち。スタジオやライブに呼んでくださって、いろいろなことを教えてくださったんです。

藤本 きっと真知子さんに、一から学ぼうという姿勢があったからだと思いますよ。大ヒットを出し、第一線で活躍していた人が、なかなかできないことだと思います。

渡辺 30代はすべてが学びの連続でした。ナップザックにあれもこれもとどんどん詰め込んでいくような感覚。一流の方々とジョイントさせていただく機会があり、彼らがTPOに応じてピアノを弾き分けるのを聴いて、それまで自分は一辺倒で歌っていたことにも気づきました。ようやく少しずつ見えてきたのは、40代になってからですね。

藤本 やってきたことやレベルは全然違いますが、歳を重ねていくことへの不安や、自分がやってきた過去と未来を考えたときの複雑な思いは、何となくわかります。

年齢や経験を積み重ねていくこと

渡辺 40歳を過ぎ、たまたまご縁があって出会ったキューバのオマーラ・ポルトゥオンドさんの歌声を聴いたとき、涙が止まりませんでした。そのとき彼女は67歳でしたが、自分に置き換えて、目標ができたというか、年齢や経験を積み重ねていくことへのいい意味での自信と好奇心、勇気が湧いてきました。

藤本 素晴らしい出会いだったのですね。それこそ、偶然のように見えて、必然の出会いだったのでしょう。その頃から、ラテン、ジャズ、ロック、クラシックと、ジャンルを超えた曲をアレンジして表現されていますね。

渡辺 いろんな曲をやってきて今、やっぱり私は、ジャパニーズポップスを歌っていきたいな、というのが実感です。

藤本 一昨年デビュー30周年の記念アルバムを出され、新たな音楽活動を始められたのですね。

健全な生き方を教えてくれた両親

渡辺 ここ数年、私自身の存在を揺るがすような出来事が立て続けに起きました。まずは事務所の移籍。直後の母の死。それを追うようにして逝った父の死です。

藤本 以前テレビ番組で拝見したことがあります。素晴らしいお母様だったようですね。

渡辺 「グレートマザー物語」という番組で取り上げていただき、渡辺真知子の音楽人生を支えた母として、紹介されました。ところがオンエアの日の早朝、母が倒れて入院してしまい、私と一緒に病室で見たんです。

藤本 そんなことってあるのですね。渡辺真知子さんとの対談写真 その3

渡辺 病室では笑顔で「もう一度見たい」と言う母に、「録画もあるから、何度でも見ようね」と言ったんです。ところが翌朝、容態が急変。たまたま「母、危篤」の知らせを受けたその日、大事な歌番組があって抜けることができませんでした。都はるみさんをはじめ、実力派の大御所ばかり。その中に混じって、大橋純子さんと一緒に歌わせていただいたのが「ハナミズキ」でした。大切な母がそんなときですから、何もかも放り出したかった。でも、素晴らしい歌につられて最後まで歌うことができました。神様っているんだなって、そのとき思いました。

藤本 ギリギリのところで、真知子さんをふんばらせてくれたのは、プロ意識であり、お母様や周りの方たちの愛だったのかもしれませんね。

渡辺 史上最大のラブソングとしてつくった「それでもI love you」が、母に捧げる歌になりました。

藤本 どんなお母様だったのですか。

渡辺 いつかは嫁に出すものと思っていたからでしょうか。兄にはやさしかったけれど、私には、厳しくて強い母でした。私が弱気になっているときには、それ以上の例を示し、引っ張り上げてくれました。

藤本 でも決して「がんばって」とは言わないお母様だったそうですね。

渡辺 番組では「信じていましたから」と答えていましたね。私にもそれがわかっていましたから、いい意味で、母を裏切ることはできませんでした。

藤本 その後、お父様も亡くなられたのですね。

渡辺 母の死もショックでしたが、まさか父までもこんなに早くとは思っていませんでした。父も母と同様に、私を信じてくれていました。いろいろ心配もあったと思いますが、大きなところで私を泳がせてくれていた。その安心感が、私の支えでもありました。

藤本 今度は、そのお父様をテーマにした曲をつくられたのですね。

渡辺 偶然とは思えないほどのタイミングでNHKさんから「ユアソング」の話をいただいたのです。生きることの喜びや切なさをうたったバラードですが、正義感の強い父は、まさに色でいえば、「白」。そんな父の半生を「白色の奥行き」にたとえて、昨年リリースしました。

藤本 そんなことも乗り越え、これからの渡辺真知子さんはどんな歌い手になっていくのでしょう。

渡辺 人にそぐい、そぐわれる歌い手になれたらと思います。人としての感情、悲しみも喜びも、端から端までを歌えたらと思います。それには日々の積み重ねが大事だし、あえていうなら、毎日が勝負ですね。ここまでくると、のどにも、顔にも出てくるので、油断はできません(笑)。

藤本 健康であることが基本だと思いますが、「元気」の秘訣があれば教えてください。

渡辺 「健全」であることでしょうか。心を含めてなので、「両親」がすべてといえるかもしれません。よく人にいわれますが、解釈がめでたいんですよ。切り換えが早いのか、一日中悩むなんてことはないんですよね。

藤本 そうはいっても、気分が乗らないときや、落ち込むこともあると思いますが…。

渡辺 さすがに両親が亡くなったときは苦しかったけれど、ピット(チワワ+ジャックラッセルテリア)の渡辺真知子さんとの対談写真 その4おかげで立ち直ることができました。最近は、疲れたらちょっと休もうとか、自分でバランスをとっていけるようになりました。毎日1ミリずつでもいいから、前へ前へと進み続けたいと思います。

藤本 歌手という職業を超えて、同世代の人間としても共感し、また多くを学ばせていただきました。これからも、この年齢だから書けるというような深くて大きな作品をつくり、歌い続けていただければと思います。今日は、どうもありがとうございました。

対談を終えて

「迷い道」の「現在 過去 未来〜」は京浜急行の電車に揺られながら浮かんだフレーズだそう。「かもめが翔んだ日」の「イメージは観音崎。歌うときは必ずあの情景が浮かぶ」と真知子さん。30周年記念の舞台は、よこすか芸術劇場。会場には家族や友人らもかけつけて大盛況だったという。

2007年、なるべくしてなった感のある横須賀大使の大役を、先月務め終えた。パワフルな歌唱力と大らかな人柄そのものが海をイメージさせる渡辺さん。「歌い続けていく限り、海など自然をテーマにしていきたい」と話す。

この日、イベント出演とメディア取材をいくつもかけもちしていた真知子さん。ニッポン放送の会議室を、「まるで成人検診でも受けているかのように次々と移動」(本人弁)。疲れを全く見せず、終始笑顔とサービス精神たっぷりに語ってくれたその姿は、テレビで見た親しみやすいキャラクターそのままだった。

最後に、マネージャーになって丸3年という鈴木千鶴さんから見た真知子さんは…「ポジティブシンキングを絵で書いたような人。完全自家発電人間。一人の人間としてとても尊敬できる人」だそう。対する鈴木マネージャーは…「馴れ合いになってはいけないと思いつつ、つい甘えてしまう私。倦怠期もあるかもしれないけれど、上手な距離感を保って長く一緒にやっていけたら…」と真知子さん。

真知子さんの落ち着いた柔らかな表情は、この見事なコンビネーションがあってのもの。これからもいい曲づくりと音楽活動に期待したい。

(藤本裕子)

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