スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

花と語り、虫と遊び、絵を描いて暮らす 画家 熊田千佳慕さん

「みつばちマーヤの冒険」や「ファーブル昆虫記」など、色彩豊かで緻密な昆虫や花の作品を数多く制作し、生物画家としてその世界を確立している熊田千佳慕さん。「日本のプチ・ファーブル」と異名をとり、97歳の今も毎日、虫や花と遊び、筆を握っている。小さな命に語りかけるやさしい眼は、限りなく澄んでいた。

 

画家 熊田千佳慕さん
くまだ ちかぼ  画家。1911年横浜市中区出身、神奈川区在住。1934年東京美術学校(現・東京芸術大学)卒業後、山名文夫に熊田千佳慕さん著『みつばちマーヤの冒険』 写真2熊田千佳慕さん著『ファーブル昆虫記』 写真1師事。デザイナー・写真家集団「日本工房」に入社、土門拳らと仕事をする。戦後、細密画技法を会得し、以後「ファーブル昆虫記」「みつばちマーヤの冒険」「ふしぎの国のアリス」の挿画や絵本など、生命感あふれるすぐれた作品を数多く発表。ボローニャ国際絵本原画展入選をはじめ多数受賞。すぐれた観察力と卓越した描写力で多くの人々を魅了し、フランスでも「プチ・ファーブル」と称賛される。横浜文化賞、神奈川県文化賞受賞。

ライフワークである
「ファーブル昆虫記」の制作は、命続く限り

藤本 『ヴィサン』では長い間、連載でお世話になりました。今日は読者のリクエストもあって、おじゃ熊田千佳慕さんとの対談写真 その1ましました。よろしくお願いします。

熊田 創刊時から描いていましたからね。当時、横浜の高島屋で個展を開いたのですが、そのときは、たくさんの人が見に来てくださってね。

藤本 近々の個展のご予定はありますか。

熊田 来年は高島屋を起点に全国を回ります。最後は銀座の松屋です。

藤本 読者の皆さんも、喜んで足を運ばれると思いますよ。先生は絵をお描きになって、何年になりますか。

熊田 幼稚園の頃からなので、90年以上。ずっと続けてきたことだけが誇りです。ぼくから「描くこと」を取ってしまったら、何も残りません。今も毎日描いているし、一生、絵を描き続けたいと思っています。

藤本  「ファーブル昆虫記」のシリーズを描いていらっしゃるそうですね。

熊田  実際の「ファーブル昆虫記」の中から100匹の虫を選び、描いていますが、今やっと60枚が完成したところです。あと40枚もあるから、のんびりはしていられません。

藤本  一枚の絵を描くのに、どのくらいの時間がかかるのですか。

熊田  年に3枚ですね。80歳になって、それまで全然見えなかったものがどんどん見えるようになってきたんです。70歳のときはツルツルの葉っぱを描いていましたが、よく見たら凸凹があることがわかったんです。虫の羽根にも凹凸や模様がある。それを細かく描き始めたら、とんでもなく時間がかかってしまって。

80歳を過ぎて、どんどん
目がよくなってきたんです

藤本 視力は大丈夫ですか。熊田千佳慕さんとの対談写真 その2

熊田 耳もよく聞こえるし、眼鏡をかけることもありません。きっと神様が、もう先がないから、もっとよく見ろって言っているんでしょね。

藤本 ごほうびかもしれませんね。

熊田 見るのではなく、見つめて、見極めるということを、神様が教えてくださった。だから、この目を通して描いた絵は、神様へのレポートだと思っています。

藤本 描いた絵は、絶対に売らないそうですね。

熊田 お金儲けではありませんから、そんなことをしたら罰が当たる。毎日が発見で、楽しくてたまりません。

藤本 先生にとって、絵を描く意味って何でしょう。

熊田 命や自然の大切さを子どもたちに伝えたい。そしてお母さんたちにも知ってもらいたい。原画展に来た外国人は必ずこう言うんです。

藤本 実は正直言いますと、私は虫が苦手なほうで…。娘たちもしっかり親を見て育ち、虫が苦手になってしまっています。でも先生とお会いし虫の絵を見て、今までにない不思議な感じがするんです。孫には、ぜひこの感じ方を伝えたいと思います。

熊田 どの虫も懸命に生きています。その健気さ、かわいいもんですよ。

藤本 先生が描かれる虫は、とてもやさしい目をしていますね。

熊田 目は必ず、最後に描くんです。虫になって無心に描く。

藤本 単なるリアリズムではなく、ファンタジーのようなものを感じるんです。それが、多くの人を惹きつけるのではないでしょうか。

熊田 「ファーブル昆虫記」に、ガマガエルがオサムシを食べようと睨んでいる絵があるんです。このときは、自分が食べられてしまうような気がして、おそろしくて途中で絵が描けなくなってしまったんです。悩んだ結果、そこに、実際は出てくるはずのないミツバチを飛ばしたんです。一瞬だけ、ガマガエルが目を離す。

藤本 その隙に逃げて命拾いをする。

熊田 虫が生きていくのは大変です。このときもう完全に、私はオサムシになっていた。初めて思いました。「私は虫である。虫は私である」と。

藤本 虫になってこそ、伝えられる命のメッセージなのでしょうね。虫も一生懸命に生き、その役目をこなしている。そんなことに気づきます。

熊田 自然は美しいから美しいのではなく、愛するから美しいのです。

藤本 そんな風に思うようになったのは、いつ頃のことですか。

熊田 70歳を過ぎてからでしょうね。

藤本 イタリア・ボローニャの国際絵本原画展で入賞された頃ですね。

熊田 出版社が勝手に展覧会に出してしまってね。それまでぼくの絵に見向きもしなかった人たちが熊田千佳慕さんとの対談写真 その3、外国で評価されたら掌を返したようになって。あのときは癪に障りましたね。

藤本 本当にいいものをわかる人が少ない世の中ですね。

熊田 人間に感性がなくなってしまったんですね。今、一番悲しいのは、子どもたちにどんどん自然に対する感性がなくなってきていることです。ある幼稚園では、子どもが草むらに入ると先生が怒るんだそうですよ。

藤本 子どもたちが、自然を知らずに大人になってしまう…。

熊田 こんな都会にも自然はたくさんあります。ちょっと窓を開ければ、アウトドアですよ。

藤本 虫の声も聞こえるし、鉢植えのお花にはハチがいっぱい!

心と体で感じることが大事

熊田 小さい子には、体でそういう自然を感じる力があります。

藤本 孫が2歳のときに、一緒にベランダの花の水遣りをしていたら、「お花がおいしいおいしいって言ってるね」と言うんです。誰もそんな風に教えていないのに。

熊田 感じることが大切なんです。お母さんたちが、教えたり、押し付けたりしてはダメなんです。

藤本 先生は、どんな子ども時代を過ごされましたか。

熊田 体が弱くて、「10歳まで持たないだろう」と言われていました。ですから、家の庭で花や虫たちと遊んで過ごすことが多かったですね。父は勉強の「べ」の字も言わず、ぼくが虫と遊んだり、絵を描いていたりしたら笑顔でした。小学校3年生のときに、初めて「ファーブル昆虫記」を見せてくれたのも父でした。

藤本 お医者様だそうですね。

熊田 父はドイツで医学を学び、帰国後、横浜で開業医をしていました。家には西洋のものがたくさんあり、「ヨーロッパにはこんな本もあるよ」と見せられたのです。驚いたと同時に、「将来、絶対にこの虫たちの絵を描きたい」と、ぼくの「夢」になったのです。一日中花や虫たちと遊んでいても、偉い先生になれるんだと。熊田千佳慕さんとの対談写真 その4

藤本 出会うべくして出会ったというのでしょう。

熊田 幼稚園のときの話です。ぼくは園庭の藤の花に飛んできたクマンバチの背中を触りたくて、ピョンピョンと飛び跳ねていたんです。黄色のビロードのような毛に触れてみたかった。今ならすぐ「危ないからやめなさい」と言われそうですが、園長先生はじっと見守ってくれました。そしてようやく、ぼくがクマンバチの背中に触れたその瞬間、「ゴロちゃん(本名は五郎)、よかったね」と一緒に喜び、ほめてくださったのです。

藤本 初めて小さな命を感じた瞬間。指先に感じたその何かが、今の熊田さんをつくったともいえるでしょう。

小さなものたちに生かされているんです

熊田 幼稚園では大好きな絵をずっと描いていることができたけれど、小学校ではそうもいかず、学校がイヤでなかなか馴染めなかった。教室の隅っこで黙々と絵を描いていると友だちが寄ってきて「わぁ、上手な絵。ぼくにも描いて」と言い出しました。そしたらあっという間にズラーッと列ができてしまったんです。忘れもしない「こいのぼり」の絵です。

藤本 みんなが欲しがるなんて、どれほどお上手だったのでしょう。

熊田 普通は地面の上に家が建っていて、その脇にポールが立っていてこいのぼりが泳いでいる。でもぼくは、屋根とこいのぼりだけを描きました。みんなに「スゴイ!」と言われ、輪の中に入れてもらえたんです。

藤本 五郎少年の画家への夢は、途中で消えることはなかったんですか。

熊田 上級になると体も丈夫になり、野球を覚えました。大好きな野球で食べていけるならと、中日ドラゴンズの前身である「金鯱軍」に籍を入れたんです。そしたら1週間目に父に見つかり、「おまえは絵を描いていればいい」と連れ戻されました。

藤本 お父様は、才能を見抜いていらっしゃったのかもしれませんね。その後は、どうなさったのですか。

熊田 神奈川県立工業高校の図案科を卒業、東京美術学校(現・東京藝術大学)在籍中に日本工房に入社し、化粧品の広告をつくったり、外国向けのグラフ誌「NIPPON」のレイアウトを担当したりしました。

藤本 日本工房という会社は、商業美術のはしりだそうですね。

熊田 当時の仕事はすべて今に生きていますが、商業主義に疑問を感じていたことも事実です。終戦後に勤めた会社でも化粧品のポスターなどを担当。一方で挿絵の仕事も続けていましたが、原色を使った派手な絵に辟易し、「こんなもの、子どもに見せるものではない。絵本が嘘を教えてはダメだ」とついに会社を辞めて、絵本作家になることにしたんです。

藤本 その頃はもう、ご家庭を持っていらっしゃったんですか。

熊田 ええ。家内には相談せずに決めました。その後は営業もしないので、貧乏の連続。家族には苦労をさせました。70歳で認められましたが、いまだに貧乏生活は変わりません。

藤本 何が幸せかといえば、好きなことをやり続けられること。それに、先生の絵は、子どもから大人まで、たくさんの人を幸せにしています。

熊田 ありがたいことに「余命いくばくもない」という人が展覧会に来て、「元気をいただきました」と涙を流しながら話すんです。その人は今もピンピンして活躍しています(笑)。

藤本 先生の絵から、生きるエネルギーというか、魂をいただくのかもしれませんね。

熊田 そんな話を聞くと、うれしくなりますね。楽しみにしていてくださる人がいるから、命続く限り。ですからぼくには、老後はありません。

藤本 来年の企画もありますので、ますますお元気でいてくださいね。何か健康法があれば教えてください。

熊田 特別なことは何もしていません。強いていえば、輪切りにしたレモンを顔にのせ、ビタンビタンと、こうやって思いきりはたくんです。

藤本 ああ、先生、痛い痛い!熊田千佳慕さんとの対談写真 その5

熊田 これくらいやらないとダメなんです。でも時々、頭がクラクラしちゃう(笑)。それともうひとつ大切なのは「ときめき」です。ぼくの場合は、描かなくなったらおしまいだ。小さなものたちを愛おしみ、生かされているようなものです。

藤本 今日は楽しいお話をありがとうございました。これからもずっと、描き続けてくださいね。虫のお友だちにも、よろしくお伝えください。

対談を終えて

千佳慕という名にしたのは39歳のとき。ファンから手紙が届いたという。「五郎という名前でいたら、命を落とします。千人の佳人に慕われるように『千佳慕』という名にしなさい」。しかも、「改名したら3か月後には効果があらわれ、3年後には財宝を手に入れることができる」とあった。半信半疑だが、極貧生活から抜け出したいと改名。3か月後を心待ちにしたが、待つだけで結果があるわけがない。「なんだ、いんちきだったのか」と思ったが、「3年後」に期待し、そのまま今に至る。今ではすっかりその名が定着し、むしろ「五郎さん」に違和感すら覚える。が、「親からもらった名前。感謝してサインには『g 』の字を入れている」という。

(藤本裕子)

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