スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る!

落語を通してたくさんの愛を伝えたい 落 語 家 三遊亭京楽さん

三遊亭円楽に入門し、1992年には真打にスピード昇進。古典落語を得意とするほか、社会テーマを盛り込んだ防災落語、福祉落語、環境ミュージカル落語などの新分野を開拓、新作にも精力的に取り組む三遊亭京楽さん。定評通り、明るくエネルギッシュな高座を拝見したあと、この世界へ入ったきっかけや、かつて経験されたという闘病生活のことなどを伺った。

 

落語家 三遊亭京楽さん
さんゆうてい きょうらく  1964年横浜市生まれ。京都学園大学経済学部卒業。在学中に水墨画、上方落語を学ぶ。1988年三遊亭円楽に入門後、1992年真打にスピード昇進、古典落語を得意とする。新作にも意欲的に取り組み、防災落語、福祉落語、環境ミュージカル落語などを発表。また阪神・淡路大震災の直後から毎年チャリティー落語会を開き、収益を被災地や福祉団体に寄付。アメリカで字幕落語の独演会を開くほか、香港・台湾などでも公演し、喝采を浴びる。毎月「末廣園」(横浜市神奈川区)で独演会を開催。趣味の水墨画は個展を開く腕前。
http://kyorakusan.com

生活を経験し、人に「うまい!」と言わせるための芸ではなく
素直に登場人物になることが一番なんだと
思えるようになりましたね

藤本 お疲れ様でした。笑いあり涙ありの独演会。思わず話に引き込まれてしまい、とても楽しかった三遊亭京楽さんとの対談写真 その1です。

京楽 ありがとうございます。こちらこそ、見てくださって光栄です。

藤本 あれは、古典落語ですか。

京楽 ええ。今日は日頃から私を支えてくださっている気心知れた方々にお集まりいただく会でしたので、あの場でしかできない、未完成でもやってみたかった大ネタばかりです。

藤本 それはお疲れですね。やり終えた、今の感想はいかがですか。

京楽 虚脱感というか、「とにかく走り終えてよかった」という感じです。その日の出来というのは、最後の拍手でわかるんですが、おかげさまで、今日はまずまずの出来でしたね。

藤本 皆さん感動されていましたね。私もあまりに素晴らしかったんで、夢中で拍手していましたよ。すみませんが、私は落語にあまり詳しくなくて。それでも今日の『中村仲蔵』という名前は聞いたことがあります。

京楽 3年前に師匠と兄弟子に稽古をつけてもらったものを、下げも演出も変え、ぼくの型にしてやらせていただいたんです。とくに『中村仲蔵』は、女将さんの存在が鍵なんです。落語の世界ではほとんどが女性上位ですが、その中で『中村仲蔵』は夫婦二人三脚で人生を歩む話。とてもよくできている反面、ものすごく難しい作品なんです。

藤本 今泣いているかと思えば、次の瞬間にもう笑っている。見事に役を切り替えていらっしゃいましたが、何人もの人を演じるのですね。

京楽 演劇文化にもいろいろありますが、落語がほかにまさるのは、人物描写と「間」なんです。笑いながら、涙を流させる。これは演技ではなく、声を変えるのでもなく、間の変化なんです。

藤本 泣きながら笑うなんて、難しいですね。

京楽 実は、うちの師匠も「泣くときはしっかり泣け」と言うんです。それで、名人芸といわれる『芝浜』を、6時間ほどもかけて厳しい稽古をつけてくださった。本番を前にぼくは、毎晩家で泣き、電車で泣き、楽屋で泣き、おかげで泣き過ぎで目が腫れてしまい、医者に叱られてしまったほど。するとうちのかみさんが言うんです。「あなた、それは本当の芸じゃないんじゃないの?」って。

藤本 どういう意味でしょう?

京楽 そのときはぼくもわからなかったんですが、あるとき歌舞伎の本を読んでいたら、「泣いているようでは本当の名人とはいわれない。私は、その域の芸人を目指しています」とあったんです。確かに酔っぱらいを演じるときに、本当に酔っぱらってはいないわけで。泣くという最高のエキスを抜き出すというか、泣く心持ちでやるというか。

藤本 どこから見ても、本当に泣いているように見せるというのは、どれほど難しいのでしょうね。それにしても、今日の切り替わり様は、緊迫感がありましたよ。

40代はまだ「ひよっこ」70代で勝負という世界

京楽 師匠の『芝浜』を見た方は、全員が涙してしまうほど感情が入るんです。ぼくはまだまだですが、40年後はすごいものをお見せしますよ。

藤本 40年後?

京楽 40代なんてまだひよっこ、70代になってからが勝負という世界です。

藤本 それほど奥が深いものなのですね。ところで、京楽さんがこの世界に入られたきっかけは何ですか。三遊亭京楽さんとの対談写真 その2

京楽 祖父は画家で、父は中学校の、母は高校の教師をしていました。社会科と英語を教えていた父が当時から赤十字の国際交流活動をしていた関係で、ぼくは小学校の頃からインドの子と文通をしたり、中国の子と交流があったりしたんです。そんな環境の中で、横浜中華街の書店で一冊の本と出会うのです。

藤本 どんな本だったのですか。

京楽 富士山、芸者、民謡、錦絵、水墨画などを中国人向けに紹介した絵本で、そのとき日本文化の大きさ、広さを知り、深く勉強したいと思うようになったのです。それで「水墨画を本格的にやりたいので、京都に行かせてほしい」と親に頼みました。

藤本 上方落語ではなく、水墨画のために京都へ行かれたのですね。

京楽 ええ。ところが大学時代の話。あるとき京都の美術館で、中国の水墨画を見たんです。5枚の絵を目の前にして、涙が止まらなくなって…。

藤本 どういうことですか。

京楽 基礎、基本が全く違っていた。「こりゃだめだ」と正直思いましたね。「文化センターの先生ならええ。でも、今から水墨画家になろうとしてもあかん。真剣に水墨画家になりたいのなら、君の孫を5歳で中国にやって基礎から学ばせれば、なれるかもしらん」と言われ、あっさりその道を断念。その頃、京都学園大学の先輩に、現在の桂三風さんがいらっしゃったことから、落語家という選択肢が生まれたのです。

藤本 一気に夢が変わったのですね。

京楽 どんな落語家になろうかと考えて、まずは国際的な評価を受けること。そして、子どもや若者たちが、笑いながら涙を流せるような新作落語をつくること。この2つが鍵だと思いました。

藤本 具体的にはどのような動きですか。

京楽 防災落語をつくったり、字幕で落語を見せたり、聴覚障害者向けの落語をつくったりと、海外で評価を受ける可能性のある演出を、師匠と一緒に考えて取り組んだのです。

藤本 海外公演も多いのですね。

京楽 アメリカはマサチューセッツ大学やハーバード大学、ニュージャージーの教会などでも、防災落語、福祉落語、環境落語を披露しました。ほかに、香港や台湾、フランスなどでも機会をいただいて、字幕付き落語を披露することができました。

藤本 そういう落語があるのですね。

京楽 もともとこの世界にあったものではなくて、ぼく自身がいろいろな経験を積んできた中で、ごく自然に生まれてきた新ジャンルなんです。

藤本 いろいろな経験とは?

京楽 落語家になったのは1988年ですが、2年目には二ツ目に。そして、その2年後には真打になりました。ところがその直後、真打披露パーティーを開こうというときに、椎間板ヘルニアで倒れてしまったんです。

藤本 そんなときに、突然!?三遊亭京楽さんとの対談写真 その3

京楽 真打披露公演は、車いすで務めさせていただき、それから半年間は全くの寝たきり。その後1年半の車いす生活を強いられました。

藤本 それは大変でしたね。

京楽 自分では何ともできないという苦しみですね。当時2歳の息子と妻を抱え、大きな借金がありました。仕事も全部キャンセルし、ベッドの上で壮絶な痛みと闘う日々。半年間くらいは、自分をなくすことばかりを考えていましたね。

藤本 そのお気持ちもわかります。

京楽 でも、そんなときでも息子は、ぼくの隣で泣いたり笑ったり。実は、ぼくにとてもよく似た性質で、小さくても感性が鋭く、口数が多い子どもでした。その分問題を起こしそうなところもあって、「将来この子には、ぼくの助言が必要になる」と、踏み止まることができたんです。

藤本 ご病気は完治されたんですか。

京楽 水中ウォーキングをはじめ、必死でリハビリに取り組んだ結果、奇跡的に快復へと向かうことができました。今でも運動やリハビリは欠かせません。とくに水泳は3日に1回。3〜4時間のストレッチは日課になっています。

藤本 落語家というお仕事も、長時間の稽古や正座があって、とくに姿勢など、お辛くないですか。

京楽 師匠に稽古をつけてもらうときは、6時間。本番は、緊張の中で2時間。正座も正直きついですけれど、復帰することができて、皆さんに聞いていただけるだけで幸せです。

藤本 そのような闘病生活の体験が、落語に影響しているのですね。

京楽 古典落語の人情話には、障害者、健常者の別はなく、一様に心やさしい人たちがたくさん登場します。それまでは人に「うまい!」と言わせるための芸だったものが、復帰後は、素直に登場人物になりきることが一番と、思えるようになりました。

藤本 短い時間の中で天国と地獄を経験したからこそ、感じて表現することができるのでしょうね。

京楽 阪神・淡路大震災のときには、駆けつけて落語をやらせていただきました。そのときの人々の笑顔が忘れられなくて、その後も新潟など被災地の人々のための落語を。また、老人施設にいるお年寄りや、学校に通えないひきこもりの子どもたちも、落語によって、少しでも元気づけられたらいいなと思っています。

人が人であるだけで尊いものだと思います

藤本 今は方々から呼ばれていらっしゃるそうですが、落語を通して皆さんに伝えたいことは何ですか。

京楽 人が人であるだけで尊いものだと思うんです。ましてや困っている人を助けるとか、子どもを守り、お年寄りを大切にするといった、人間としての根本をもう一度考えるべきだと思うんです。でも残念ながらそういうことに気づくことができないほど、人々は忙しく、心が荒んでしまう毎日。そのためにも、落語が必要だと思っています。落語に出てくるおっちょこちょいの人間や失敗ばかりする人間、それを助ける人たちを見て、「こんな私を愛してくれる人もいるのかもしれない」ということに、一人ひとりが気づいたら、いい社会になるんじゃないでしょうか。

藤本 最後に夢を聞かせてください。

京楽 落語家としては、江戸の人々の心意気を伝えることができる古典落語と同時に、環境や福祉のテーマを盛り込んだ現代の新作落語を、しっかりつくっていきたいですね。

藤本 お仕事以外ではいかがですか。三遊亭京楽さんとの対談写真 その4

京楽 幸いぼくは、あたたかく、才能豊かな家庭に育ってきました。文化の世界への扉を開いてくれたのも、両親であり祖父母でもありました。いつも父は厳しく、母はやさしく愛情を持ってぼくに接してくれました。闘病生活のときも、母が泣きながらぼくの腰をさすってくれると、その間は不思議なくらい痛みが遠のいたものです。ぼくも、今は2人の父親として、またひとりの人間として、両親たちが見せてくれたような生き方をしていきたいと思っています。

藤本 やはりご家族の影響は大きいのですね。今日は、素敵なお話をありがとうございました。どうか、これからもますますご活躍ください。

対談を終えて

苦労してナンボという芸人の世界。京楽さんもある意味、落語家になるために生まれてきたといえるほど、さまざまな苦労や経験をされている。真打までのスピード昇進は「目標がはっきりしていたので、がんばるのはそう大変なことではなかった」とさらり。
落語家の入門前に叩いたのは、東京築地の魚河岸の門だった。特技の「海老の皮むき」を修得したのもこの時期で、それは「寄り道」ではなく、江戸の文化や生活を学ぶために必要な経験だった。
面白いのは教師一家という環境で育っていること。今もご実家は「職員室状態」だそう。調べることやしゃべることが得意なのは血筋というのも、うなずける。
順風満帆と思われた直後に病に倒れ、落語家生命も危ぶまれた。どん底を経験し、そこから這い上がった京楽さんだからこそ、人の心を打つ落語家として輝いているのだと思う。苦労は買ってでもするもの。人生無駄なことは何ひとつない。と、今日もいろんなことを学びました。

(藤本裕子)

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