今月の特集 編集部注目のこの話題

今月の特集 編集部注目のこの話題!

LIVE LIFE 2007年9月号
特集 お母さん大学 夏休みの宿題

今年の夏の課題「読書感動文」あなたは、もう提出しましたか?ブンナよ、木からおりてこい 写真

「お母さん大学」から送られた夏休みの課題図書「ブンナよ、木からおりてこい」(水上 勉作/若州一滴文庫刊)を手にされた皆様、早速、宿題をご提出いただき、ありがとうございました。送られたのは「感想文」ならぬ「感動文」。皆様からのメッセージを読めばことさら、ブンナが深くなっていくことを肌で感じています。それぞれの皆様が「ブンナ」に何かを感じ、アクションしてくださったことを感謝すると同時に、さらに多くの皆様に「ブンナ」の素晴らしさを伝えるために、いただいた中の数編、しかもスペースの都合上、一部を抜粋してですが、紹介させていただきます。

修行僧の旅

冒頭、「ブンナ」という名前の由来を親から教わる機会がなかったという文脈で、「これは、奇妙な自分の名前に込められた親の思いを、主人公が自分で探っていく物語だ」と勝手に思い込みました。そして、おそらく文末かあとがきに出てくるであろう「オチ」を楽しみに読み進みました。そう思ったのは、私自身の幼い頃の体験とだぶったからです。

私が幼稚園に入る直前、母は、「みほ子」という、当時では珍しかった名前をつけた理由を、なぜか詳しく語って聞かせてくれました。「やさしい女の子になってほしいと願って、耳への響きが柔らかい音を選んだ。漢字もいくつも考えたが、結局は平仮名にした。それは、漢字を使ってひとつの意味に限定せず、大きくなってから、自分でこうだと思える漢字を当てはめたらいいと思ったから」。母は、子どもだから理解できないとは考えず、難しいことでもじっくり言い聞かせて教育する主義だったようです。

それから間もなく、浄土宗のお寺が経営する「パドマ(サンスクリット語で赤い蓮の華、の意味)幼稚園」に入った私は、園長先生の挨拶を聞いて、腰を抜かさんばかりに驚きました。「天竺」を模した本堂の飾りの前で、尊い「みほとけ」さまのお話を初めて聞いたのですから。仏さまとよく似た名前(と、当時は厚かましくも感じたのです)を親から授かったことを知ってからというもの、園で教わる一つひとつのことを真剣に胸に刻み、私は、先生から見ると申し分のない子どもに育っていきました。

もうひとつ、自らの体験で思い出した重要なことは、「上る」という行為でした。 幼稚園では品行方正の上、兄の影響か知識も豊富だった私は、何をしても余裕しゃくしゃくの優等生。そこで母が私を戒めたのは、「上ったらあかん」ということでした。「人よりちょっとできるからといって、とろい子や不器用な子に、偉そうにしてはいけない」。

その言葉を忠実に守ったおかげで、幼稚園でも小学校でも、「普通、勉強のできる子は、できない子を見下すのに、みほ子ちゃんは、そういう子には特に親切ですよ」と先生から誉められ、母はたいそう喜んでいました。でも私は「できない子を意識すること自体、上っていることではないか」と、逆に小さな胸を痛めてもいました。しかも、子どもの価値観では、頭が良いことなど何の値打もなく、容姿が良くて体育の得意な子が羨望の的。小柄で不器量だった私は、どうがんばっても「上り」ようもなかったことに大人が気づいていないことが、実はさびしかったのです。

私は人から見るとトノサマガエル、自分自身の中では、ツチガエル未満の存在でした。実際、中学を卒業する頃まで、トノサマガエルはおろか、雀さんやネズミさんのような行動も起こせない自信のない子どもでした。

賢さと貧相な外見のギャップのせいか、随分いじめも経験しました。そのとき、私を支えてくれたのは、多少の親ばかと価値観のずれがあるとはいえ、親が私を大事に思い、私を信じ、惜しみなく愛情を注いでくれているのが確信できたことでした。私自身も親を信じ、友人を信じ、悲しくなったときは、お天道様の判断はどうかと考えるようになりました。親の愛情と「みほとけ・ショック」のおかげです。ただし、私は今でも決して信心深い方ではなく、仏教の知識もないので、仏さまがお聞きになったら罰が当たりそうです。そして、両親からも、「そんな大それた名前をつけた覚えはない」と叱られるかもしれません。

ブンナが動物たちとのやりとりで学んでいったこと、親の大切さ・命の重さ・良心・懺悔・裏切り・自惚れ・身勝手・輪廻転生等々…、この本にちりばめられた貴重な多くの学びについては、とても、藤本さんにお聞かせできるほどの感想は述べられません。

名前の意味探しの旅だと思って読み始めた物語が、中盤から、若い修行僧の旅へと変化していました。ブンナは、美しい心と邪悪な心、自信と畏れ、色んな自分と向き合い、悩みながら、懸命に悟りを開いていったのだと。だから、最後にそれがお釈迦さまのお弟子さんの名前だったとわかったとき、ごく自然のことだと思いました。

そして、難解な宗教論や人生哲学を押し付けるのではなく、トノサマガエルの冒険になぞらえて、子どもだけでなく、大人にも、自分の生き方を考えさせるこの本に、心から感動しました。私自身もまた、修行の旅の疑似体験をした思いがしました。

快楽や観念への執着を超越し、喜悦する心も苦も滅し、お釈迦さまから「もう汝に教えることは何もない」と言われた富楼那のように、主人公ブンナも、その後また旅を重ね、多くの弟子を導き、最後は完全な涅槃に入ったのでしょうか。深い余韻を残してくれるお話でした。素晴らしい勉強の機会をいただき、ありがとうございました。  (川嶋みほ子)

偉大なる母の愛

『ブンナ』を読み終えた。「読み終えて本を抱きしめた」という藤本さん、「お母さん大学をあれこれ説明するより、ブンナを読んでもらったほうが早い」と言った気持ちが、十分すぎるほどわかる。

小学生の頃。戦争の本をたくさん読んで、気がついた。「誰にとっても母という存在は偉大なんだ、大きいんだ、すごい大切なんだ」と。本に詰まった「お母さんへの愛で溢れる瞬間」に触れてうれしかった。「お母さんを好きでいい、求めていいんだ」と。

強いものや着飾ったものが社会で強く通用する偏った時代。すべてのものの出発である「母」という存在。母とはどういうものなのか? どうあれば良いのか? そういうすべての疑問の答えが詰まっている本だと思いました。

百舌や雀、雀や鼠…など? 一章一章を読み終わるたびに、大きな絵本の1ページをゆーっくりめくっているような感覚になりました。これは、大きな、私の絵本です。絵は私の目の奥、心の奥に描かれています。

『ブンナ』を読み進め、幼かった頃のこと、父親の地元の「地蔵祭り」で見た地獄の絵や、幼稚園だったお寺の園長先生(お坊さん)の話を思い出した。答えというものは、何でも簡単で一つなのだと思っている。今の社会で生きていくには危険な思い込みかもしれないが、あえて思い込む。真実はどこにでも一つずつしか存在しない。答えはどこにも転がってはいないのだ。

似ているもの、偽者はもういらない。複雑化した社会は、もっと単純なものに。いつだって、母親は子どもたちに世の中で生きていく術を直に伝えてきた。しっかりと自分の足で歩いていけるように、母親の持っている愛情を惜しげなく渡してきた。

今は余裕がない母親が多い。時間もそうだが、心のゆとりを持てない人が多い。私だってそうだ。心がきゅーっと縮んだ苦しい状態で愛情を表現するのは難しい。まだ自分の母の背中を見つめ、心をのぞきたいと願い、必死だ。 愛されているのか、愛されていたのか。ただ抱きしめてもらいたかった。母に抱きしめてもらえた(受け入れられた)ときが、私にとっては、やっと娘と真正面から向き合えた瞬間だったように思う。 母でありたい。どこまでも母でありたいと願う。数年前までは母である自分から逃げ出したくてたまらなかった。

不思議だなあ。母になり、より一層母を求める気持ちは強くなり、つらかった。その気持ちを否定することをやめたときから変わった。子どもはいつだって一生懸命に母を想う。包まれていたいと願う。

望むことはおかしなことではない。生き物として当たり前の感情なのだ。母が、私の素だから。すべての基だから。それでいいのだと思う。

あぁ、やっとこのもやもやを吐き出すことができた。すべてを表現し尽くしたわけではない。ぬくもりや言葉や心を使い、娘たちに何度も語っていけたらいいなぁと感じている。 (本池慶子)

凡庸に生きること

「ブンナ」よ強くなれ! 誰よりも、誰よりも強く生きよ! 
「凡庸とは、ありふれた。並。落ちこぼれ」というのであれば、凡庸の子であってはならない。生きることに、誰よりも強く、強く秀でなければならないのです。生きることに凡庸の子であってはいけないのです。 父親は子どもには「強くなれ」と願います。だが、優秀な大学に入れとか、一流企業に就職せよとか、人より秀でよ、と思ってはいません。この世に生を与えられたからには、生きて、生きて、生き抜く強い人になってくれ!と願っているのです。

私は、2人の子どもに、生きることへの努力と忍耐を教えました。彼らは、学歴や体力は並の人です。だが人生に対して真っ直ぐに進んでいく努力と忍耐は誰よりも力強いです。彼らは誰にも、誰にも、負けない強い凡庸の子です。

ブンナよ、強く生きる凡庸の子になってほしい! (いっこう)

人に役立てる人に

私たち人間界も、いろんな人がそれぞれ生まれた環境、境遇によって違った生き方をしています。お互いが違いを認め合って生きていくべきではないでしょうか。

生まれてしばらくは母親にお乳をもらい、生きてゆく術を教えてもらいます。幼稚園、小学校、高校、大学と。大きくなるに従って出会う人も多くなり、いろいろなことを学び、考え、成長していきます。

そして、それぞれ幸せを求めて生きているのです。その途中で意見が食い違い衝突することもあるでしょう。ブンナもよく反省をしていましたが、自分が間違っているとわかったときには、素直に反省する勇気が大切だと思います。反省できるのは自分が悪いとわかったときです。

今、私たちは自分が間違っているのか、そうでないのかさえわからず過ごしているのではないでしょうか。自分のことだけを考え、他人のことは考えていない。いえ、考えていないどころか、この童話に出てくる、百舌や雀、蛇や牛ガエルのように窮地に陥ると、他の人を蹴落としてまで幸せになろうとしていることがあるのかもしれません。

人間は決して一人では生きていけないのです。今や、政治家や宗教家など一部の人だけが、世の中のことを考えるのではなく、全体が全体のことを考えるときがきているのではないでしょうか。環境問題しかり、エネルギー問題しかり。学ぶ大切さを感じています。人間は生きている限り、何らかの形で人生修行をし続けているのだと思います。

この童話の鼠のように、人の役に立って喜んで旅立っていけるような心境で死ぬために。そして、つぐみのように人に感動を与えるような生き方をし、美しく死んでいくために。これは理想でしょうか。決して理想ではないと思います。理想にしてはいけません。みんなが本気で考えましょう!と言いたいです。かくいう私も、ただ今、勉強真っただ中。お母さん大学で学びませんか。 (山田美重子)

鳶に狙われぬように

読書嫌いの私は滅多に本を読みませんが、久し振りに夢中になって読みました。

そんなつもりでなかったのに次々に起こる災いを何とか乗りきり、木の上で冬眠の挙句、無事に下界に下りてこられたブンナの運命は、我々の人生にも似ています。

鳶は気まぐれで誰を先に連れていくかわかりません。鳶は神と一緒で絶大なる力を持っていてコントロールができない存在です。鳶につかまった餌食たちは自分の生き残りをかけて同類を蹴落とし、自分だけが助かろうとする人間の性を百舌や雀、蛇、鼠にたとえている感じでした。

今や参議院選挙が終わり、各政党間では相手の欠点ばかりを言い合って、相手が鳶に連れていかれると喜んでいるというわけで、人間社会ではあらゆる場面で同様の葛藤が繰り広げられています。

我々の置かれている社会は、ブンナの椎の木の上の狭い場所と同じような世界で、いつ誰が鳶に連れていかれるかわからない状態で蹴落とし合いをしている感じです。

年寄りだから先に連れていかれるとは限りません。事故や虐待で小さな子どもが亡くなったというニュースが、たくさん聞こえています。 我々の頭上には無情な鳶がいつも飛び回っていて、油断をすると連れ去られます。物語の中に、いつもは注意していたのに今日はうっかりして鳶につかまったという話が何度か出てきますが、ブンナのように鳶につかまりそうな環境にいながら、運良く難を逃れることのできる人もいます。そういう話の組み立てが我々の人生にも当てはまり、この物語が面白いのでしょう。

ブンナは無事に木から下りてきましたが、油断をすると蛇に食われたり鳶にさらわれる危険性がなくなったわけではなく、相変わらずいつ何が起こるかわからない環境にあるのは無力な我々の立場と何ら変わりません。それでも生きている限りはじっとしているわけにいかないので、今日もあちこちをハイカイして何かを求めているのも人間の性かもしれませんが…。努力半分、運(縁)半分の人生か。

最近神の力を感じるようになりました。人間にはどうしようもない自然の力です。病院で、血液検査の結果に一喜一憂。次第に悪くなっていく数値に、間もなく鳶にさらわれるという気持ちです。仕事や活動結果が思うようにならないのは努力のしようもありますが、自然の一片である自分の体が弱ってくると、如実に神の力を感じるものです。ブンナの鳶が我々の神に思えてなりません。  (竹中義行)

子ども自身で判断を

童話文学を何十年ぶりで読んだ。これは、子どもたちのためにつくられた話としての童話だろうか。自分自身(本書を読む人)に対する教えではなかろうか、どのように理解し、受け止め伝えるかを反問してしまう。

生きていくための術、良いこと、悪いこと、強いこと、弱いこと、美しいこと、醜いこと、自分だけのこと、他の思いやりのことなど、その時々に起こることを、自分だったらどのようにしたか考えさせられた。自分が、雀、百舌、鼠、蛇、牛ガエルだったらどのようにしただろうか、私は彼らと同じ言葉、行動をとるか否か自信がない。

子どもたちにどのように伝えたらいいだろうかと考えてしまうが、直接読んだ子どもたち、読み聞かされた子どもたち自身が判断するのが良い。自分が善しとすることを自身でつかむこと、これが結論のようだ。本書を取り上げ、たくさんの方に伝えることは素晴らしいことです。早速、周囲の人に読むようにすすめました。(竹内照雄)

常道でない価値観を

水上 勉さんが、この本で子どもたちに伝えたかったのは何だったのか?という問いに、この本はわずかの手がかりさえも記していない。つまり、この本に限って、常識の理屈に根ざした問いは成り立たないのではないか…私の読後感はこの一語に尽きる。

水上さんは子どもたち(ばかりではないだろうが)に、ご自身を含めて生きとし生きるもののありのままを、ノーコメントでただ晒されただけではないかという気がする。そして、そこからひしひしと伝わってきたのは、「考えなくていいんだよ。君が感じたままでいいんだ」という慈しみのこもった願いだった。

水上さんが最も意を注がれたのは、子どもたち自身の直感を惑わせないように、という用心だったに違いない。

人と人とのふれあいを支えるのは、「理」と「利」というのが今日の世間では常道とされているようだが、本当にそうなのだろうか?

そういえば、私にこの童話を読ませてくださった、「お母さん大学」の藤本さんが常々口にされているのは、「響感」という言葉であった。   (手塚俊孝)

平和な日々の大切さ

『ブンナ』は7、8年前に青年座のお芝居と、その後、地元アマチュア劇団がやったお芝居を観て知っていましたが、今回じっくり原作を読ませていただきました。

そして、末娘が高校を中退したときのことを思い出しました。「お前は頭は悪くないのに、そんなに勉強しなければ、普通の人になってしまうぞ!」と言った担任教師に腹を立て、「私は普通の人になりたくて勉強しているのに! 普通の人になったらいけないのですか!?」と娘。

もちろん入学当初から、彼女が許せないと思う担任の発言はいろいろあったのですが、学校を辞める決め手となったのは、その言葉だったように思います。担任は九州大学出身で、エリート意識のかたまりみたいな人でした。

とにかく、世界中の動物(人間も含む)や植物が安心して平和な日々を送れるようにするため、私にできることは何? まずはこの地球温暖化を何とかしなくちゃ。身近なことから心がけていこうと思いました。 (人吉のヤバイばっちゃん)

心に響き残ること

読み物(物語)として、確実に面白く読むことができました。

ジュエリーをつくるという私自身の仕事でいえば、初めはいろいろなメッセージや今までの生き様までを総動員してつくるのですが、最終的にはそれをできるだけ消し去る努力をします。さもないと身に付けるには、あまりにも煩くなってしまうからですが、それでもやはり、自分の持っている何かがにじみ出てしまいますし、それこそが自分がつくる証のようなものかなと思っています。

『ブンナ』は、読み終えたあとに幸せになれる本。きっと何も考えずに読んでも、とても面白く、心に響き、残ります。この「心に響き残ること」が、どれほど難しいことかを痛切に感じます。それはその場ですぐ役に立つことですし、そうでない部分もいつか必要になったときに、とても役立ってくれるはずです。

いまどきの子どもたちを見ていると、「感じること」が薄れているように思います。歩いていても、地面を感じることがないんじゃないでしょうか。家族にも読むようすすめてみますが、それぞれの自由に任せるつもりです。いずれにせよ、『ブンナ』をずっと大切にしていきます。 (庄田武之)

実りの糧にあるもの

実りの糧にあるものは
大げさなイマジネーション。
愛から与えるすべてが
ここに置かれていたとしたなら
奇跡を待つことはしまい。
きっと
小さな傷から大きな傷となり
その傷を埋めるように
恐れを呼ぶのでしょう。
これが最後とわかるその時
神(私自身)は
時とともに流れゆく
自然の絶叫としかならない。
ブンナよ、木からおりてこい
生きる時、その時まで。
(川原千賀子)

「ブンナ10人会」の仲間になってください!

ブンナを読んでくれたひとりのお父さんからメールをいただいた。「上の娘はまだ漢字が読めないところが多く、妻が一章ずつ読み聞かせているようです。今、5、6章だったと思います。実はぼくも娘に本を読んであげるんですよ。下の娘はぼくに本を読んでほしいみたいです。甘いからでしょうね(苦笑)。読み聞かせることで、ものすごく本を読むようになりますね」と。
  巻末の「母たちへの一文」で、水上氏はこう書いている。「子どもというものは、本を読むより、話をききたがるものだということを知った。話をしておいてからあとで、本をあたえると、不思議に本がきらいな子でも読むのだった。私は、自分のもっていた童話本を片っ端から話してきかせたあとで、皆に廻しよみさせた」(本文より)。
  長編のブンナを読み語ることは、簡単なことではないだろう。でも、そこには、読み手(親)と聞き手(わが子)しか入れない空間がある。その、ゆったりとした時の流れの中で、子どもたちの心は育っていくのだろう。
  かつて、灰谷健次郎さんが、全国に語りの旅を続け、たくさんの子どもたちと出会った清野友義さんに、「お前は幸せだな」と、ぽつりと言ったという。この小さなウェーブを広げる活動にご協力ください。

『ブンナよ、木からおりてこい』(水上 勉作/若州一滴文庫刊)は、書店では販売されていません。お申し込みくださる方は、TEL、FAX、メールにてトランタン編集部まで、お申し込みください。
TEL045-444-4030 FAX045-444-4031 info@30ans.com価格1050円(税込/送料200円〜)

* あなたの町で「ブンナ10人会」を!*
この機会に、みんなでブンナを読んで、それぞれの感動を「響感」しませんか!? ブンナの読後感を語り合ったり、大人が子どもたちにブンナを語る会もいいですね。子ども会やPTA、町内会、ママのランチタイム、パパの飲み会が、感動の時間になります。

バックナンバーの一覧へ戻る

ページのTOPにもどる
老若男女響学「お母さん大学」プロジェクトはこちら
お母さん大学メルマガ藤本でこぼこ通信 登録はこちらから
『百万母力』はこちらから
『百万母力』はこちらから
『百万母力』はこちらから
『百万母力』はこちらから
ブンナプロジェクトはこちらから
池川 明先生のDVD「胎内記憶」&本のご購入はこちらから
 
株式会社トランタンネットワーク新聞社 〒221-0055 神奈川県横浜市神奈川区大野町1-8-406